ビジュアルメモリーズ 第1回
「ネトゲ黎明期を拓いた夢の投影機」
人類が増えすぎたデータ容量を光ディスクに書き込むようになって、すでに5年くらいが過ぎていた。コンソール・ウォーを勝ち残った巨大な企業は第6世代の御三家となり、開発者はそこで3Dグラフィックを磨き、インターネット通信を実装し、そして5.1chサウンドにも対応させていった。西暦1998年11月27日、ソニーのPlayStationに劣勢を強いられていたセガは次世代機ドリームキャストに社運を賭け、ハードウェア業界に最後の戦いを挑んだ。しかし、2年あまりの戦いで家庭用ゲーム機事業からの撤退を表明。ファンはその儚い運命に涙した。戦争はマイクロソフトの参入で膠着状態に入り、20年近くが過ぎた。
この企画は、幼い頃からメガドライブ、ゲームギア、セガサターン、ドリームキャストとセガハード一筋で遊んできた筆者が、『バーチャファイター』の「10年早いんだよ!」というアキラの台詞がじんわり胸に沁みる未来基準の傑作ハード、ドリームキャストが隆盛を極めていた当時のゲームカルチャーを振り返る形で、ビジュアルメモリという名の外部記憶装置に永久保存された思い出の数々を掘り起こす青春連載である。
セーブデータは私の思い出
湯川専務の携帯ストラップ欲しさにお小遣いを前借り、初期タイトルを無理して3つ購入したローンチ初期から、オープンワールドの先駆け的な存在『シェンムー』に影響されて格闘技を始めた世紀末。『ファンタシースターオンライン』(以下、PSO)をダイアルアップ接続でプレイし続けて電話代が2万円を超えたミレニアム。そして年始早々にセガがドリームキャストの生産中止とハード事業撤退を発表した敗戦の2001年。筆者が家庭用ゲーム機で遊ばなくなった最期の瞬間までを、連載をとおして可能な限り網羅していく。
その道の途中には、すぐには書ききれないほどの傑作があふれている。4つのローンチタイトルで『July』を選んだ地元唯一の子供が登る青春への階段や、エンディングまでプレイして価値が分かるNECの遺産『セヴンスクロス』、ゲーム音楽のヴォーカルコレクションを今も聴き続ける『ソニックアドベンチャー』。永遠の17歳の声で喋る巨乳冒険家に憧れた『神機世界エヴォリューション』、アニメ化に歓喜した『パワーストーン』、好きすぎてリアルに北海道の聖地へランラランした『北へ。 White Illumination』、ハリウッド流のカメラワークに三半規管を翻弄された『ブルー スティンガー』。
ポストアポカリプスとロボットを融合したヒューマンドラマの名作『ELEMENTAL GIMMICK GEAR』、ソフィーティアのおっぱいしか見えなかった『ソウルキャリバー』、1日でクリアしてアムロと対戦できる限定ディスクを手に入れた『機動戦士ガンダム外伝 コロニーの落ちた地で…』。名作の主人公たちが夢の共演を果たした垂涎の的『クライマックスランダーズ』、前衛的すぎて子供には早すぎたホラー『Dの食卓2』、コントローラー殺しの電子ドラッグ『クレイジータクシー』。オールタイムマイベストRPGの続編『グランディアII』に、ヒゲと筋肉と空賊の男気に魅了された『エターナルアルカディア』など、思いつくだけでも書き上げればキリがない。
その中から第1回は、オンラインゲーム市場の拡大と変遷に伴って、『Dragon’s Dream』や『ルーンジェイド』に次いで、セガが業界で初めて家庭用ゲーム機による本格的なMORPGに乗り出した初代『PSO』に焦点を当てながら、インターネットが今ほど家庭に普及していなかった時世にあってネトゲ文化がいかに市民権を得ていったか、その軌跡を振り返る。まだ一般家庭に現在のような高速回線はもちろん、地方によってはISDNやADSLといったデジタル通信はおろか、テレホーダイのような定額制サービスの選択肢すら存在しなかった時代。スマホやガラケーなんて未来のテクノロジーで、ポケベルやPHSが若者のおもなコミュニケーション手段だった頃の話である。
ネトゲが市民権を得た瞬間
一般家庭にインターネットが普及し始めたのは90年代初頭。ちょうどその頃、アバターによるチャット機能に加えて、ゲームにグラフィック処理が実装された世界初のMMORPG『Neverwinter Nights』が、1991年にMS-DOS向けに発売された。これが現代のオンラインRPGの土台を形作った最初のタイトルだと言われている。その後、1996年末にハクスラの代名詞ともいえるBlizzard Entertainmentの『Diablo』が登場。MORPGの先駆けとして、全世界で300万本を超えるセールスを記録した。時を同じくして1997年7月、近代MMORPGの始祖『Ultima Online』がElectronic Artsからリリースされた。商用のMMORPGとしては最初の成功例であり、後世の発展に与えた影響は計り知れない。しかし、この頃はまだオンラインゲームといえば、一部のコアユーザーのみが嗜む狭いジャンルの娯楽だった。
ちなみに同年、セガは家庭用ゲーム機では史上初となるオンラインRPG『Dragon’s Dream』をセガサターン用に発売していたが、まだコンソールユーザーの間でオンラインゲームがほとんど認知されていなかったことに加えて、通信機能を別に用意しなければならないというハードルの高さからプレイヤー数が伸び悩み、わずか数年で運営終了。同ジャンルの普及には繋がらなかった。その経緯もあり、インターネット通信用のアナログモデムが標準搭載されたドリームキャストの登場は、まさにネトゲ文化が市民権を得る転機。黎明期から成長期へと移り変わるきっかけだったとも言える。実はモデムの標準搭載というだけなら、ドリームキャストが発売される2年も前にバンダイのピピンアットマークというハードが存在していた。こちらは世界一売れなかったゲーム機として歴史に名を残した。
現在では家庭用ゲーム機でも一般的になったゲームソフトのデジタル販売や発売後のアップデート配信すら存在しなかった時代。コンソールユーザーにオンラインゲームへの扉が開かれたと言っても、厳密にはオンライン通信で協力プレイや対戦プレイ、特典コンテンツのダウンロード機能に対応し始めた時期と表現すべきかもしれない。ドリームキャストの発売当時、一般的なインターネットといえばダイアルアップ接続が当たり前だった。後に標準搭載のモデムと換装することでLAN接続に対応したブロードバンドアダプタが販売されたが、それまではインターネットに接続することと電話をかけることは、ほぼ同義だったのだ。そのためドリームキャストでオンラインコンテンツを遊んでいる間は分単位で電話代が増えていく。田舎の一般家庭で常時接続なんてとんでもない。
そんな中、幼いながらにセガBBSといった電子掲示板で、見知らぬ人と出会うスリルにも似た喜びを覚えた私の心を鷲づかみにしたのが、セガ・マークIIIやメガドライブで一世を風靡したセガの名作『ファンタシースター』を世界中のプレイヤーと一緒に遊べる『PSO』だった。それまで既存のオンラインゲームではテキストベースのロビー画面が一般的だったこともあり、プレイヤーのアバターを介して直接触れ合い、シンボルチャットを使って感情を豊かに表現できる『PSO』は、単なるコミュニケーションツールとしても便利だった。もちろんロビーで知り合ったフレンドとの冒険も楽しんだが、チャットするためだけにログインすることもしばしば。当時、北米サーバーに入り浸りアメリカ人やカナダ人とばかりつるんでいたのを覚えている。ラグオル(PSOの舞台となる惑星)だけの関係、“ラグオルデート”なんて言葉もあった。
夜だけの関係“ラグオルデート”
そんな思春期のセガゲーマーを悩ませたのが、1か月に2万円にも3万円にも膨れ上がった電話料金だった。それというのも、エルフの里と言っても過言ではない私の生活環境には、当時まだダイアルアップ接続しか選択肢がなく、23時から翌日8時までに限り通話料金が定額になるテレホーダイも対象外の未開拓地だったのだ。また、『PSO』は家庭用ゲーム機では初のブロードバンド対応ゲームだったが、当然ブロードバンド回線などという近未来のテクノロジーが整備された地域ではなかった。『PSO』のロビーに接続するたびに流れる「ピーヒョロロロ…… ピロピロピロピロ…… ガァァァアアア」という音が懐かしい。毎晩ボーイフレンドと『PSO』に潜っている間、自宅の電話は常に通話状態。よくお父様に「いつまで長電話しているんだ!」と叱られたものである。電話代の請求書が届いた際に大目玉を食らったのは言うまでもない。
『PSO』といえば、まだパッチ配信なんて概念がなかった時代だけに、バグ修正のほかに新たな難易度やレアアイテムを追加した『PSO Ver.2』が半年後に発売されたことも忘れてはいけない。定価が無印より2000円安かったとはいえ、内容をアップデートしただけのゲームがフルプライスで販売されていたのも、今よりも当たり前の光景だった。それでもバトルモードやチャレンジモード、最高難易度のアルティメットモードが追加されると聞いて有無を言わさず飛びついたものだ。特にソロプレイではクリア困難なアルティメット難易度は、フレンドたちと協力して何度でも立ち向かった青春ドラマとして記憶に焼き付いている。中には進学や就職、入院で引退が目前に迫っているメンバーもいて、最後の思い出を作ってあげようと奮闘することもあった。振り返ってみれば、まさにドラマ「光のお父さん」みたいだった。
一方で、当時はゲームのセーブデータを今のようなサーバー上ではなく、ビジュアルメモリにローカル保存していたため、データ改造によるアイテム増殖といった不正行為もあとを絶たなかった。たとえば、世界中のプレイヤーが喉から手が出るほど欲しがった超レアアイテムも、バイナリエディタを使ってアイテムデータの情報を少し書き換えるだけで容易に偽造できたのだ。それが一部のチーターを介してネットの海に拡散された事件も少なくない。筆者の周囲でも当事者が暗躍していた。なんと通っていた学校のクラスメートにチートグループに所属して偽アイテムを売りさばいていた闇の武器商人がいたのだ。私にこっそり正体を明かして、「欲しいアイテムがあれば何でも作ってやる」と誘惑してきたのを覚えている。もしかしたら私がボーイフレンドからもらった「アギト」や「スプレッドニードル」といったレア武器も偽物だったのだろうか。いまとなっては知る由もない。
このように通信基盤が現在ほど整備されていない時代にあって、プレイヤーの多くが標準のアナログモデムのまま遊んでいたにも関わらず、初代『PSO』最盛期の同時接続ユーザー数は当時のPCゲームを含めてトップクラスだった。これによりオンラインゲームの認知度は急上昇。開発を手がけたソニックチームの貢献は、後世の作品に多大な影響を与えた。カプコンの看板タイトル『モンスターハンター』も、『PSO』のゲームシステムにインスパイアされたことで知られている。そんな『PSO』は同年代の『ファイナルファンタジーXI』や『ドラゴンクエストVII』といった著名タイトルを破って、第5回日本ゲーム大賞にも輝いた。21世紀の夜明けは、まさにオンラインゲーム市場が家庭用ゲームメーカーに拓かれた瞬間だったのだ。次回は時代をさらにさかのぼって、ドリームキャストのローンチ当初の外部記憶にアクセスする。