“ゲーミング”モデルの無用なデコレーション – 必要なのは機能美だけ

最近、とあるハードウェアのデザイナーから質問を受けました。私がゲームで身をやつしたことを小耳に挟んだからでしょう。その内容を要約すると、 「ゲーミングモデルのデザインというものはどうするべきだろうか?」。

最近、とあるハードウェアのデザイナーから質問を受けました。私がゲームで身をやつしたことを小耳に挟んだからでしょう。その内容を要約すると、 「ゲーミングモデルのデザインというものはどうするべきだろうか?」。彼は日常的にゲームをするタイプではなく、”ゲーミング”といわれてもピンと来な かったのでしょう。

最初に念押ししておくと、「ゲームをしないやつがゲーミングデバイスのデザインなんかやっているのか!」という批判もわからないではありません。た だ、かのデザイナーの業務はデバイスの機能面の設計ではなく、あくまでも外観の追究にあります。ハードコアゲーマーのみがゲーミングデバイスを創造しうる などといった極右派的論説を持ち出すならともかく、個別分野のスペシャリストの存在は別段珍しいことであはりません。

ゲーミングデバイスは私も御多分にもれず買い漁った経験があります。下のマウスパッド群は手元に残ったものだけ、他は里子に出しました。昔はダイ ソーのまな板パッドを試してみたり、シリコンスプレーを塗布してみたり、トスベールをマウスソールにしてみたり、果ては壁紙をマウスパッドにしてみたりと 我ながら少々常軌を逸した取り組み姿勢だったものです。

 

手元に残ったもの。 使っているのはZOWIE SWIFTとG9X。
手元に残ったもの。

使っているのはZOWIE SWIFTとG9X。

 

また、マウスやモニタ、ビデオカードにサウンドカードとこだわったこともありました。今や”ゲーミング”の大御所である Razer 製品も、黎明期に真っ先に飛びつきました(そして初期不良品を引きました)。長年変化がないのは日本が誇る究極のキーボード Realforce 106S くらいのものです。

 

さて、ではゲーミングモデルのデザインはどうあるべきか?というテーマについて、2つの問題に分けましょう。1つは機能、1つは外観です。

機能について、”ゲーミング”の名を冠するガジェットたちの進化は目を見張るものがあります。リフレッシュレート3桁hzのモニタ、山盛りのサイド ボタンを備えたマウス、大量のマクロ用キーを用意したキーボード、等など。いかにもゲーム目的らしいそれらは当然ながらゲーマーをターゲットにしたもので す。しかし、本当に有効なのでしょうか?

ゲームをするためにハードを揃えるという行為は、突き詰めると「勝利」か「効率」にしかたどり着きません。そしてボトルネックになるのは人間自体の 性能です。それを最適化するために多種多様な機能を求めるという事自体は間違いではありません。最新鋭のモニタとVGAも、秒間60フレーム以上の世界に おいて0.01秒単位で世界を変えられるならばよいでしょう。が、自身のポテンシャル限界を突破するために活用し始めると話は別。

ようするに、そうしたアプローチは不正行為(ハードウェアチートなどとも呼ばれる)に足を突っ込んでいるのです。ごく自然にマクロ機能の搭載を謳う 商品は多々ありますが、BOTやマクロの使用を不正行為と判断し運営されているゲームは多数あります。とくにオンラインで他プレイヤーに干渉できる作品で あればその影響は小さくありません。本来ならばプレイヤーの操作負荷を軽減させるためのもの(例: 右手のみで操作しながら左手ではポテチを食べたい)ですが、正義と邪悪の境界線は曖昧です。

 

 


境界線が曖昧なハックの一例

 

文化や歴史がボーダーラインを定義することもままあります。端的な例として挙げられるのが連射機能。自動連射機能を搭載したコントローラーといえ ば、30年近く前(ジョイボールなど)から存在しています。これだけ歴史が積み重なってしまえば、プレイヤーコミュニティが不正と断罪する事態にでも陥ら なければ、”チート”とは見なされないでしょう。

つまり機能面からアプローチするゲーミングデバイスのあり方は、「過剰な機能を付与すべきでない」という現状と逆説的な結論を導かざるをえません。 自己完結するゲームならば使用の是非について異なった見解もありうるでしょうが、そういった指針はビッグタイトルではどんどん少数派になりつつあります。

交流や競技を目的とするならば、全プレイヤーの環境はなるべく標準化されているべきです。Microsoft が誇る IE3.0こと IntelliMouse Explorer 3.0 など、シンプルな設計のマウスを好んだ多くのヘビーゲーマーたちは、すなわち自らがクリーンな存在であることを(少なくともハード面からは)アピールでき ていたのです。皮肉なことに、ゲーミングモデルの、とくに入力デバイスを公然と最大効率で活用できるのはゲームではなく、表計算やブラウジングなど、ゲー ム以外の使徒でしょう。

 

コンソール機は当たり前に標準化が進んでいる。
コンソール機は当たり前に標準化が進んでいる。

 

次に外観について。”ゲーミング”と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。上述のやたら多いボタンや、珍妙な形状、いろいろあります。しかし、最も象徴的なのは「発光」ではないでしょうか。

件のデザイナーと話をしたとき、争点になったのは LED の存在です。いわく、「DreamHack(スウェーデンで開かれている大規模な LAN パーティー)の会場など暗いところでの所有欲を満たすのにイルミネーションは不可欠という意見を聞いた」。

なるほど、わからなくはありません。青色発光ダイオードの放つ輝きは三十路を越えた私の心もがっちりキャッチしてきます。見れば見るほど惹きつけられます。じつに存在感があります。そして無意味です。

そもそも”ゲーミング”などと形容されたデバイスを使う者は何をするのでしょうか。ゲームをします。ゲームをする際どこを見るか。おそらくモニタ以外見ません。

無意味な発光は害悪ですらあります。真剣にゲームをプレイする場合、視認性は重大な要素になってきます。ゲーミングモニタではほぼ確実に強調される 要素です。理想的な環境は、暗室で映像部のみが光を放っている状態としてまず間違いはないでしょう。その理想を発光するデバイスは阻害します。

さらに具体的にいうと、たとえばモニタのベゼル部分やスイッチなどに LED が仕込まれていたとしましょう。最初の数時間は楽しいかもしれません。その後慣れるでしょう。最終的には取り外したくなるに違いありません。視覚的情報と して不要であるのみならず、ゲーム画面への認識力を低下させ、さらに眼の疲労にもつながります。そうしたデバイスを持っていない方にも想像していただきた いのです、視界の隅に延々と光源が鎮座している状況を。想像するだけで鬱陶しいのではないでしょうか。

もちろん、デバイスが光ることのメリットもあります。頻繁には押さないスイッチを暗所で探る際、大変有効です。ですがこのメリットも後ろ向きなもの でしかなく、どちらかといえば暗がりでも手探りで操作できるような物理的デザインを採用するべきで、結局「光らせよう、じゃあどこに仕込もう」というス タート地点が見え隠れします。

青の光がテクノロジーとハードコアゲーミングの象徴だった時期はありますが、もはやそうした概念や価値観は捨て去るべきです。筆者の想像を超え、有意義な発光の使い方が考案されるかもしれません。しかしそうでなければ、本気のゲーミングにとっては不純物でしかありません。

しかるに、あるべきゲーミングデバイスの外見とは何かを突き詰めると、虚飾を排したシンプルなものになると考えられます。それこそ闇に溶け込むよう な、質実剛健な、悪しざまにいえば存在感のない形。それこそが”ゲーミング”的外観というものでしょう。それがマーケット的に不利であるという反論につい ては、商品のマーケティング手法に問題があるのだろうと反反論しておきます。

 

見えるべきものが見えたら十分。
見えるべきものが見えたら十分。

 

結論すると、「ゲーミングデバイスのデザインからは機能美以外排除すべき」です。新奇性や奇抜さを重視するという主張は今や既存の構文に沿っただけ の思考停止です。マーケターたちが蒐集してきたデータもあるでしょう。”ゲーマー”もひとくくりにはできません、年齢によって好みも異なるでしょう。光源 により心が高揚させられプレイの質が改善する人もいるかもしれません。しかしながら、べき論だけを並べるならばおおよそ本稿のような仕様に着地せざるをえ ないはずです。

とりあえず光らせておけ・とりあえず近未来的(かつ実態のない)な造形にしておけ・とりあえずボタンを増やしておけ。こんな思想がいつまでも”ゲー ミング”モデルとして認知されるとは信じたくありません。ゲーマーを自称する各位にあられましては、「ゲームをプレイするにあたり必要なものはなにか」を 今一度顧み、購入対象を選定してみてはいかがでしょうか。

 

万が一保証期間外に壊れた場合はロープワークの練習に使いましょう。
万が一保証期間外に壊れた場合はロープワークの練習に使いましょう。

 

Nobuki Yasuda
Nobuki Yasuda
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