コラム――『傷を負った世界』

幼いころ、両親に連れられて行ったゲームセンターでのことだ。もはやその作品が何だったのかすら覚えていないのだが、私は巨大な筐体の前に座って、画面をじっと見つめたままコントローラーを操作し、ディスプレイが映し出す極彩色の世界に夢中になっていた。

幼いころ、両親に連れられて行ったゲームセンターでのことだ。もはやその作品が何だったのかすら覚えていないのだが、私は巨大な筐体の前に座って、画面をじっと見つめたままコントローラーを操作し、ディスプレイが映し出す極彩色の世界に夢中になっていた。しばらくすると突如として映像が固まり、アルファベットが浮かぶ真黒な画面があらわれた。それはさきほどまで見ていた世界とは真逆の、冷たい、無機質な映像だった。すこし間をおいて、筐体がサイレンのようにけたたましいビープ音をあげた。私は自分がとんでもないことをしてしまったような気がし、叱られると思ったが、駆けつけた店員のお兄さんはやさしく声をかけてくれた。

お兄さんがゲームを直すところはかなりの見ものだった。鍵のようなものを筐体に差し込み、すこし蓋を開けてなかに手を差し込むと、いきなり画面に映像が戻ってくる。私は感心してなにか言ったと思う。彼は微笑みを浮かべ、ボタンを操作すると、まるで魔法のようにクレジットが増えていった。

私は喜んでプレイを続けたが、同時に不穏なものを感じていた。当時はなぜなのかわからなかったが、いまではわかる。一緒に遊んでいた友達が大怪我をし、ぱっくりと開いた傷口を見て驚いていると、医者がやってきて傷を塞いでくれる。そしてその直後に、友達が元気いっぱいに遊びはじめる。べつにその友達は楽しいやつなので気にはしないのだが、こいつはちょっとおかしなところがあるんじゃないか、という気分になる。

『Pony Island』カワイイポニー」ウ」皀筌」リ」ル」レ竺軸宍ス。ン。。ュカ
Pony Island』カワイイポニー」ウ」皀筌」リ」ル」レ竺軸宍ス。ン。。ュカ

そもそもなぜこんな話をしているかというと、『Pony Island』というゲームをプレイして感があったからだ。本作は、かわいいポニーを操作して遊ぶという平和なコンセプトのアーケードゲームがじつは悪魔に憑りつかれていて、プレイヤーの魂を刈り取るものだったという設定をもつ。

このゲームの興味深い点は、一人称視点のプレイヤーキャラクターが「Pony Island」というゲームの筐体をのぞき込んでいる、という入れ子の構造を持っているところだ。『Fallout 4』でプレイヤーキャラクターがターミナルをのぞき込んだときのような構図である。どういうわけか、視点になっている人物はなにがあろうとも筐体の前から離れない。ゲームを進めるとともに確実になってくる悪魔の影響力がプレイヤーを縛りつけるのだ。
このゲームにおいて、「悪魔」はバグ的なものの表現である。画面の崩壊、グリッチ音、「Pony Island」を乗せているOSの露見などはまさにバグと同様、これは作品の企図から外れているのではないか、見るべきではない映像なのではないか、という気分をプレイヤーに起こさせる。禁止されたものを破りたいと思うのは人間の常で、この気分に引っ張られてプレイヤーはどんどんと先へ進んでいく。

『Hacknet』ゲームオーバー画面。
Hacknet』ゲームオーバー画面。

近頃、バグ的な演出はいたるところで用いられるようになった。『Dr. Langeskov, The Tiger, and The Terribly Cursed Emerald: A Whirlwind Heist』の冒頭で大写しにされる端子が接触不良を起こしたような画面は、それにつづく「ゲームが誤作動を起こしている」という設定の予表である。架空のOSを操作して遊ぶ『Hacknet』のゲームオーバー画面は、ソフトウェアエラーを意味する死のブルースクリーンだ。『Undertale』では、それまでゲーム内で注意深く統御されていた8bit風のグラフィックをあるキャラクターが唐突に越境して、解像度の高いグロテスクな姿でプレイヤーの眼前に現れるために恐ろしさが倍加される。読者のみなさまのお気に入りのゲームにも、ひとつくらいはバグ的な演出が盛り込まれているものがあると思う。

『バグのセカイ』スタート画面。
バグのセカイ』スタート画面。
このバグ的な演出の黎明については、確証はないが筋の通った説明をつけられるだろう。開発者たちも筆者とおなじように、幼いころにビデオゲーム上でバグを体験し、物語世界を崩壊せしめる異常な力を目の当たりにした。その記憶を参照して、開発者たちがバグにまつわる崩壊や恐怖の感覚を、演出として再利用しはじめた。これの最たるものが日本産フリーゲームの『バグのセカイ』で、「キャラクターがバグだらけのゲームをプレイすると、並行して物語世界がバグに侵される」という設定のゲームである。

歌川国芳による歌舞伎役者絵。3人の黒衣が描かれている。熱中して物語を追いかけている最中に、この黒衣たちが人形を取り落としてしまったら、どんな気分がするだろう。 画像出典: 黒衣 - Wikipedia
歌川国芳による歌舞伎役者絵。3人の黒衣が描かれている。熱中して物語を追いかけている最中に、この黒衣たちが人形を取り落としてしまったら、どんな気分がするだろう。
画像出典: 黒衣 – Wikipedia
なぜビデオゲームにおけるバグの発現はプレイヤーに恐怖を与えるのか。それは、我々がフィクションを鑑賞する際に作品と結んでいる約束事がとつぜん反故にされるからだ。たとえば我々は人形劇を見るとき、舞台上で人形をあやつる黒衣は存在していないものと見なす。彼らは物語という身体を動かすために必要な筋肉組織のようなもので、ふだんは美しいフィクションの皮膚に守られて、表に出ることはない。しかし、たとえば黒衣がおもいきり大きな音を立てて転んでしまったとき、フィクションの皮膚は傷を負い、その内部で動いている筋肉をさらけ出すことになる。小説でいえば乱丁で、映画であればフィルムの寸断や放映機材の故障で、ダンスであれば建物の床が抜けることで、それぞれのフィクションが提示していた物語世界は傷つけられる。

おなじようなことがビデオゲームにも起こる。カートリッジ式のゲームを遊んでいるとき、なにかを追いかけていた飼い猫がコンソールに激突する。ゲームが提示するフィクションの世界に夢中になっていたプレイヤーは、突如崩壊した映像、フリーズした音声などによって、一瞬の衝撃を受けたのちに虚脱に陥ることになる。

現実世界に置き換えてみれば、夢中になって話していた相手が、いきなり突っ込んできた自動車に轢かれるようなものだ。それは凄絶な体験である。たとえそれがフィクションにおける出来事であっても、衝撃は十分なもので、プレイヤーの脳裏に深く刻みつけられることになる。

バグはもちろん現実世界の構造に起こるものではないが、類似のものとしては天災や事故や戦争が挙げられる。こういった体験のもたらす衝撃はたいへんなものがあり、我々が属している、あるいは鑑賞して楽しんでいる世界への信頼を貶める。べつの言い方をすれば、ビデオゲームにおけるバグと現実における天災の差異は、現実世界が崩壊するか、物語世界が崩壊するかの差異である。そしてフィクションはつねに、現実世界を反映し、指示するものであり続けてきた。つまり、物語世界の崩壊であるバグを演出手段として応用するビデオゲームは、我々の住む現実世界の崩壊を暗示している。

『Continue? 9876543210』プレイ画面。このゲームをプレイする際は、ティッシュを箱で用意しておこう。
Continue? 9876543210』プレイ画面。このゲームをプレイする際は、ティッシュを箱で用意しておこう。

『Continue? 9876543210』は、志半ばにして倒れたビデオゲームの主人公が、削除を待つばかりのごみデータが集積されるランダムアクセスメモリーの領域に堕ち、ごみ収集プロセスの手から逃れるために遁走を続けるゲームである。ごみ収集プロセスに主人公が捕まってしまい、破局が訪れたとき、不快なノイズが鳴り、データの削除が行われる。

プレイ体験そのものにはビデオゲームらしいアクションも含まれているが、それはこの世界がビデオゲームにすぎないことの虚しさを強調するための手段でしかない。この作品において、主人公と彼がさまよう街々は一時的な存在であり、いつか必ず、ごみ収集プロセスという物語世界の崩壊がやってくる。

物語世界が崩壊するということは、それまで信頼しきっていた物語世界の秩序が綻びを見せ、無秩序をあらわにすることだ。これを現実に置き換えてみれば、魔女であり異端者だからという理由で火あぶりを宣告されたり、台風や津波や地震によって住む家を失ったり、おまえはなにをどうしようともいつか必ず死ぬと宣告されたりするようなものである。直截な事実は、それまで人為によって効率的に体系づけられていた秩序をかき乱し、無秩序に帰す。その光景は暴力的だが、まぎれもない現実であり、真実ですらある。

真実とは、筆者が幼いころに直面したアーケードゲームの動作不良であり、ゲーム開発者たちにとってはPokémonの「MissingNo.」でもあるだろう。我々はそういったものに対してどんな注解もつけられない。肉体的に行動することはできるかもしれない、たとえばボランティアを行ったり、祈りを捧げたり、寄付をしたりといったことはできる。しかし想像を絶する天災に対し、言葉を用いて注解をつけることはあまりにも難しい。

我々はこのテーマのまわりを周回しつつ、無意識のうちになにかを感じ取ることしかできない。言葉などというものは、「バグ」によって傷つけられた痛ましき死体の前ではなんの力もないからだ。しかし我々がもし希望を持つことができるとすれば、人々が無意識のうちに作品を創造し、それらが図らずとも死者への鎮魂に、そして生者の愉しみに結びついているというただその一点においてのみ可能なことである。

『Continue? 9876543210』導入部。カウントが0を刻んだあと、ゲームが始まる。
『Continue? 9876543210』導入部。カウントが0を刻んだあと、ゲームが始まる。
Syohei Fujita
Syohei Fujita

5歳の誕生日に『ポケットモンスター』の『緑』を買ってもらった時から、ビデオゲームは私と共にありました。煎じ詰めればじつに単純なインタラクティビティと光の明滅に、なぜ我々はここまで驚喜することができるのか?この興味深い問いを少しずつ解き明かしていくつもりです。……もちろん普通のレビューも書きます。なんにせよ、すべてのコンテンツは受け手が自分の人生を忘れるために作られますが、驚くべき豊かな未来において、ビデオゲームはその目的を完全に達成すると思います。

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