ゲームに価値を見出すために必要な”クリア”とはなにか


最初に結論します。「プレイしたゲームが自分の中で終わったと感じること」です。

新卒向け就活サービス大手リクナビにて、4月15日にある記事が公開されました。ヨドバシカメラの採用担当者が投稿したもので、内容はというとようするに「入社わずか10日目で辞める決意をかためた新入社員にたいし、ゲームを引き合いに出して諭す(結果は変わらず)」というもの。詳細は情報元をごらんください(前編後編)。

言及したツイート数が3000を超えるほどには注目を集めたこの記事、私自身も共感するところがありました。おもに辞めた新卒にたいしてです。さすがに10日ということはありませんでしたが、世間一般からするとかなり早い段階で会社から逃げだし無職へ転げ落ちたドロップアウト組としてのシンパシーです。

いわく「楽しさにたどり着く前に職を変えてしまうから、幸せになれない」。なるほど一理あります。拙稿『「面白い」と「楽しい」を切りわける』では2つの軸にわけていましたが、この場合まとめて”楽しい”と表現してもよいでしょう。個人的には、仕事を理解して"面白い"と感じるようになるのと、業務自体が自分の感性にフィットし高揚を感じる"楽しい"は別々だと考えるのですが、それは今回はおいておきます。

 


"ゲームクリア"はどこか

 

さて、ゲームの終わりとはどこでしょうか。会社を辞めてもいい時期というもののほうはしばしば議論されており、石の上にも三年の法則だとか、会社の業務内容を把握したらだとか、いろいろと基準が先人たちにより設定されて(または説かれて)きました。

一方のゲームはややこしく、「スタッフロールが流れてジ・エンド、何もかもリセットされてタイトル画面送り」な作品は最近では絶滅危惧種ですらあります。あの手この手で周回プレイをうながしてきますし、そもそも終わりが設定されていないものも多々あります。エンディングを拝むことなど、クリアの一形態にすぎません。

しかるに、ゲームを終えるにはみずからが「これがゲームの終わりだ」と区切りをつけるしかありません。しかし、それをあまりにも早い段階で遂行してしまうと、作品の深奥にたどり着かず、おそらくは支払った金額分を自分の血肉とすることはできないでしょう。無論、ゲームのすべての価値を獲得することもありません。では、最低限度に健康的な決別法とは何なのでしょうか。

 


1. クリアしたと思うこと

 

クリアしたと思ったからクリア。とんだトートロジーですが、これはまず最初に考慮すべき、最も難度が高く、かつ理想的な状態です。もちろん、クレジットは「クリアした」と思うためのパーツでしかありません。

現代においてプレイヤーは作品に挑み、理解し(=”面白い”軸を良化する)、興奮する(=”楽しい”軸を良化する)ことこそがゲームを充分に消化したという証たりえます。件の2軸でいえば、右上側にシフトさせようとする意志の果てこそがクリアなのです。

かといって、作品のすべてを認識する必要性はありません。というよりも現実的ではないのです。究極的にゲームを突きつめると、それは仕様への挑戦であり、少なくとも創造主が意図した範囲外に出ることは確実です。「ゲームの後半におどろきが!」等のやっかいなパターンはしぶしぶ対応するとしても、猶予数フレームのコンボができなければダメなどということはありません。

つまり、あくまでも個々人の力量の範囲内で、できるかぎり理解と興奮を追究し完遂すること、すなわちこれ以上の座標の変化がないと判断すること。それこそがゲームクリアの1つであり、ゲームが終わる瞬間です。仕事でも「これ以上ここにいても自分には得るものがない」との信念にいたれば、終わりでしょう。

 

2. 作品がつまらなくなること

 

個人的な感情のことではなく、ゲーム自体の仕様変更にともなうものを指します。一昔前ではありえない話だったのですが、最近ではどんなゲームでも細い修正や追加要素がしばしば入るものです。そして、それが作品の価値をスポイルすることはありえます。

商業的な目的での”追加要素”がゲームを破壊することはしばしばあります。『Diablo III: Reaper of Soul』のような奇跡的な事例もなくはありませんが、大多数はそれまで遊んできたプレイヤーをいらだたせます。

パッケージ1つのなかですべてが完結していた時代はとうの昔に終わりました。今はゲームの価値が発売後に変動します。もし、プレイしていたあるゲームが何らかのアップデート等で”つらい”・”つまらない”の許容範囲を超過してしまった場合、それは非の打ち所のないゲームクリアであり、ゲームの終わりです。仕事でも、上から降ってきた高次の意思決定により組織全体が迷走へ陥ったのならば、終わりと断じたところで誰も批難などしません。

 

3. その他の外的要因(どうしようもない理由)

 

ゲームをクリアせざるをえない、止めざるをえない場合があります。時間がとれない、カネが枯渇したといったありがちなものから、健康上の理由までありえます。たとえば、私はかなり一人称視点のゲームを経験してきましたが『ミラーズエッジ』だけは3D酔いがひどくプレイすることができませんでした。これは私にとっては文句なしのクリアであり、終わりです。

また、ほとんどのゲームは健常者を対象に創られています。もし明日私が運転中に暴走車両に突っ込まれ片手を失ったとすれば、言うまでもなくゲームへの接し方を変えざるをえず、多くの作品へ別れを告げざるをえないでしょう。あまり愉快な例えではありませんが、こうしたこともクリアたりえます。また、加齢なども今後こういった部分に入るでしょう。しかし、ゲームの終わりとはすなわち個人のコンディションすべてを総合的に鑑みた最終決定なのです。

ゲームも仕事も、バッドステータスを抱えつつ進めるのは無理があります。体調不良のままやるものではないのです。とはいえ、ゲームはしょせん娯楽ですので抜き差しならぬ状況まで追い詰められたとしても次善策は思いつくのですが。

 


自信を持って「クリアした」と言う

 

結局、ゲームクリアにしろ社会人としての熟練にしろ、自分の主観的な認識以外にメルクマールはありません。1時間で「ああダメだこりゃ」と確信するゲームもあれば、1年で「この仕事はダメだ」と(悲しみをもって)評価する会社もあるでしょう。しかし、とにかく自信があればいいのです。胸を張って「これはクリアだ。終えた。」と言い放てるのならば、誰にもとがめられません。

そして逆に、ゲームの場合はとくに、そのように切り捨てなければならないこともあります。終わりのないゲームを、楽しみも面白みもなく延々と続けてしまうくらいならば、「もうクリアでいいよ」と離別することも、ゲーマーとして重要な決断なのです。

ゲームでも仕事でも、いや人生のあらゆる分野において、みずから終わりを設定することが許されないほどの専門性を勝ち取ることなどほとんどありません。もし真っ当に生活できるのなら、いつでも「クリア」してしまいましょう。守らなければならない一線を超えない範囲で、好きなように次の「ゲーム」へと手を伸ばすのがなによりも健全です。

>どうしても終わりが見えないならば、
”飽き”にクリアを定義するという手もある。
主体的に終わらせることもまた肝要。
心配しなくていい、飽きたということは堪能したということ。
もはや評価は動かない。