2015年 ゲームによる思考・思索賞選考
2015年がそろそろ終わるにあたって、国内外のメディア、ゲーム賞などでベストゲームが選出されていて、私も1人のゲーマーとして楽しませてもらっている。今回、私は1年総じてのベストゲームという主旨を少し変えて1本のテーマに絞った形でベストゲームというのを選出してみたい。
2015年 思考・思索ゲーム賞ベスト5
私はゲームそのものが、悩み、考え、掘り下げ、批評し、ついには思想を持つことによって、どこか遠い地平を目指す、そのようにゲームそのものが思考・思索している観点を設けてみた。そして仮設的に「思考・思索ゲーム賞」というのを設定してみる。そして、その観点から私が選んだベスト5は以下のようになる。
1位『METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN』
2位『Everybody’s Gone to the Rapture -幸福な消失-』
3位『Urban/Satanic』
4位『The Beginners Guide』
5位『Her Story』
思考・思索ゲーム賞選考
ゲームそのものが思考・思索している作品とは、ジャンル批評的な「メタフィクションなゲーム」と言い換えて理解してくれても構わない。ただ私が「メタフィクション・ゲーム賞」としていないのは、メタフィクションの「構造」だけではなく、その悩みの深さ、思想の巨大さもまた重要視にしているからである。だからこそ「思考・思索ゲーム賞」としているのだ。ここから1作づつ簡単に選出作を思考・思索性を解説していこう。
『Her Story』はプレイヤーとプレイヤーキャラクターのインターフェイスを完全に一致させることで、第四の壁をはぎとるメタフィクションゲームである。データベース端末にある時系列がばらばらのビデオクリップを見ながら、プレイヤー側でストーリーを読み取るのは、1998年のPSゲーム『serial experiments lain』を彷彿とさせる。『serial experiments lain』と『Her Story』が違うのは、『Her Story』があくまで「キャラクターが見ているディスプレイ」として、ゲームで表現されている点だ。なので、そのゲーム画面にはディスプレイから反射した蛍光灯が見えるし、しばしばそのディスプレイを見ているキャラクターが鏡のようにおぼろげに映ることになる。そのときプレイヤーは、自身の立ち位置に自問自答することになるだろう。
『The Beginners Guide』は信頼できない語り手に、さらに入れ子構造をもつように仕立てあげたられたゲームである。構造においては今年最も優れたメタフィクションゲームだろう。Codaというゲームクリエイターが作った内省的なゲームを、Daveyが公開し、Daveyがゲームについて注釈を加えていく体裁のゲームである。そもそもゲームを公開する意図をもってなかったCodaのゲームを、Daveyという赤の他人が勝手に公開するというのは、フランツ・カフカが焼却処分を望んでいた原稿を、友人のマックス・ブロートが自身の信念に従い、公表したことを彷彿とさせる。この問題についての私の見解は、個人といえば社会の影響や恩恵に享受しているので、絶対的な個人というのは存在しない。だから個人の才能とは、やはりある程度は社会に還元すべきというリベラル的な立場だ。だからこそ著作権はいつか消失するし、納税の義務があるわけである。だが『The Beginners Guide』が厄介なのは、Daveyが公開しているCodaのゲームは、オリジナルの形ではなく、Daveyが改変した形のゲームとなっている点である。改変されている部分は、通常は退屈と受け止められても仕方がない部分だが、しかし、それこそがCodaが思考・思索したゲームの肝なのだ。ゆえにゲームはある結末に向かうことになる。
選出した5本のゲームのなかで、特に説明が必要なのは『Urban/Satanic』だろう。
『Urban/Satanic』はUnityで制作されたFPSであり、作者はブログ「GAME・SCOPE・SIZE」で卓越したゲーム批評を展開するEABase氏である。このゲームはUnityのアセットを切り貼りしたような印象を受けるコラージュ芸術のようなゲームで、統一性がなく、混沌としており、どこか『Far Cry 3 Blood Dragon』を思わせる。しかし『Far Cry 3 Blood Dragon』のようなレトロな視点や、コラージュでもって何か違うゲームを再現しようとするものではなく、あくまでコラージュそのものに注力している。まるでゲームクリエイターがゲーム制作に行き詰まったときに見る夢の光景のようであり、ゲーム制作手法そのものがむき出しのイメージのまま投げ出されている作品だ。
『Urban/Satanic』は、まさにゲーム制作途中の根源的で混乱した純粋なイメージが散乱したゲームのように見える。『The Beginners Guide』が表現しようとしたことを簡潔かつ完璧に提示しているように思えてならない。『The Beginners Guide』が嫉妬するようなゲーム、それが『Urban/Satanic』なのである。
『Everybody’s Gone to the Rapture -幸福な消失-』は、筆者が書いたレビュー記事において「『Doom』より遥か以前の原初的で無垢なるFPSを渇望している」と書いたが、つまりは作品の世界内では死後の世界なのだが、作品そのものが、その反対に作品が生まれる以前の状態まで記述し、志向している。終局から始原へ、この点でこれまでにないもっとも「深い」ところに到達しようとするメタフィクションゲームといえるだろう。
『METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN』では、副題にもなっている幻肢痛というのはゲーム中さまざまな喪失のメタファーとして扱われる。幻肢痛は心理学的にも生理学的も解明されていない現象ではあるが、哲学的には幻肢痛は身体の実在の問題として扱われている点は興味深い事実だ。幻肢から導きだされた「身体図式」という意識下の身体イメージの概念は、時間の経過や習慣化された道具の使用、幻肢の消失などによって、有機的に更新されるものと捉えられている。今作の長大なプレイ時間は、スネークの身体図式がプレイヤーのものへと「実在」に至るには長大なプレイ時間が必要なのだと主張しているようだ。
これまでMGSシリーズは、現代的な政治的テーマやテクノロジーが織り込まれていたりと、作品外部の現実との接点を大切にしてきた。この観点から、ゲームはゲームの中だけで批評すべきであって、外部の事象は考慮すべきではない、という表層批評的な態度には私は反対だ。ゲームのパッケージの裏にヒントが隠されていたり、スネークの傍にはつねに我々がいた。こうして今作ではシリーズの円環構造はプレイヤーのものへと決定的な形で継承される。そのためにドラマは徹底して不確定で容易には答えを出さないことになるのだが、そのことによって善悪の相対化された地平にこのゲームは辿りつく。このゲームと比較するにふさわしい作品があるとすれば、それはクリント・イーストウッド監督の映画『許されざる者』だろう。
そもそもエンターテイメントとしてのゲームだけではなく、ゲームで思考・思索的な要素を持ち込んだのは小島監督その人ではないだろうか。おそらく小島監督がこのような新しいゲームを作り得たのは、信頼できない語り手を導入している『ポートピア連続殺人事件』に衝撃を受けたからだろう。安部公房や筒井康隆を愛読していた小島監督にとって『ポートピア連続殺人事件』は、思考・思索する手段としてのゲームの可能性を見たはずだ。小島監督が抜けたあともメタルギアシリーズは作られるだろうし、それは上質なエンターテイメントを提供するかもしれない。しかし思考・思索するメタルギアの姿はそこにはない。
メタフィクションの構造や深さ、巨大すぎる思考・思索という観点から『METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN』は、これほど1位に相応しい作品はないのではないだろうか。
「思考・思索」が与える影響の意義について
私が「思考・思索ゲーム賞」と設定してみたのは、『ホドロフスキーのDUNE』という映画を見直したのがきっかけである。この映画は、映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーが小説『DUNE』の映画化を試みたが、結局は構想段階でストップし、作品が作られることはなかった内実に迫るドキュメンタリー映画だ。この映画を観ると、作品こそ存在しないものの、残された製作者たちの思考・思索が亡霊のように『スター・ウォーズ』や『エイリアン』など数多くの作品に影響を与えていたことがわかる。究極的には作品よりも思考・思索のほうが重要に思えてくるぐらいだ。
しかし、このような考えはそれほど突飛な考えではないはずだ。なぜなら作品を触れることによって、その作品の残滓ともいえる思考・思索に我々は触れるわけだが、実際にはこの因果関係は逆なのだ。先に思考・思索があったからこそ、作品は生まれるのであり、作品こそ残滓なのだ、と。その思考・思索を隠そうともしない作品とは、極めて真摯で、人間味あふれる正直な作品、しかし種明かしをしている点で挑戦的な作品と言えるのではないだろうか。
最後に19世紀イギリスの評論家ジョン・ラスキンの言葉で今年を締めくくろう。
“(ルネサンス以前の)中世ヨーロッパの芸術では作品制作前の思考思索がもっとも重要で、作品の出来栄えは二の次だった。それに対して現在の芸術は作品の出来栄えが最重要視されており、思考思索は低く貶められている。何度でも言う、中世芸術においては真実性が最上であり、見た目の美しさはその下に位置していた。現代芸術とは正反対なのである。”
引用元: Wikipedia