「面白い」と「楽しい」を切りわける

以前私は、ゲームを面白く感じる必要はないと述べました。最初に、言葉が足りなかったことをお詫びしなければなりません。ひとくくりに論じてしまったがゆえ、あらぬ誤解をまねいてしまいました。

以前私は、ゲームを面白く感じる必要はないと述べました。最初に、言葉が足りなかったことをお詫びしなければなりません。ひとくくりに論じてしまったがゆえ、あらぬ誤解をまねいてしまいました。

まず”面白い”という価値は、かならずしも”楽しい”をともなうとはかぎりません。それぞれが別個の”軸”であると認識する必要があります。”面白い”の逆は”つまらない”であり、”楽しい”の逆は”つらい”。ゲームを評価・批評ではなく「判断」するうえでこの2軸を中心とするのは有効であるというのが自説です。(あえてもう1軸付け足すならば”価格”なのですが、今回は据え置きます)

ですから「つまらなくて楽しい」や「面白いけれどつらい」の事例は往々にして発生します。言葉にすると違和感があるかもしれませんが、よくよく記憶を掘り起こしてみていただきたいのです。全然味わい深くもないのについつい気持ちよく没頭してしまった作品……他方、全身全霊をかけて集中し分析し取り組んではいたけれどプレイ自体はほぼ苦行だった作品……。ある一定度のゲーム体験があるかたならば、この2パターンに該当するタイトルを複数知っているはずです。

この時点で、あるひとつの事実について断言する必要があります。”つまらない”と”つらい”はそれ単独ではゲームの価値を下げえないということです。ゲームの内容を断罪し低評価をくだすべきとき、それは”つまらなくてつらい”の両輪が成立したときにかぎられます。そして、すべてのゲームへ真剣に取り組んだと仮定するとそれに該当する作品はきわめて少数です。

というのも、どんなにひどいタイトルでも本気でプレイすると、たいていの場合どちらかの軸が上向きに振れるからです。最初は”つまらなくてつらかった”のに、特定の個人または複数名が、あるいはそれを中心としたコミュニティが汲めども尽きぬ情熱でそのゲームに挑戦した結果、当初の評価がくつがえったというケース。読者諸氏も少なからず耳にしたことがあるのではないでしょうか。

無論、真にどうしようもないタイトルが存在しないわけではありません。ただ、限定的なのです。ましてや、真っ当なゲーマーであれば怒りを感じるような状態になどなるはずもありません。”つまらなくてつらい”などに屈している時間があればほかのものをプレイするからです。であれば、もはや攻撃されてしかるべき対象など”つまらなくてつらくて高価な”ゲームくらいしかありえません。さて、どうでしょうか。思い当たる作品はいくつありますか?

次に、2軸についてもう少しだけ掘り下げましょう。

 


”面白い”or”つまらない” ・ ”楽しい”or”つらい”とはなにか

 

”面白い”を表現する言葉は「興味深い」と「奥が深い」、そして「独特である」です。”つまらない”はその逆、あえていうならば「興味を持ち深堀りする要素が自分の視界内において見当たらないうえに、完全に没個性であるとしか感じられない」でしょうか。なお、このように表現したことからもおわかりいただけるかと思いますが、”つまらない”と感じるのは個人の能力や見識に強く影響を受けます。

一方”楽しい”とは、文字通り「楽しい」「熱心になれる」「没頭してしまう」。こちらは明瞭でしょう。ポイントは、「作品自体が楽しさを誘導してくる」ところです。そして”つらい”は逆、「楽しみが少なく、プレイ継続に気力が求められる、」あたりでしょう。こちらは個人の知見というよりは、どちらかといえば執念(または愛)により変化・克服される可能性があります。

話題が話題だけにあらぬ方向へと解釈されたり、どなたかの逆鱗に触れたりするかもしれませんので具体例をたくさん挙げるのはここではやめておきます。ただし、あくまでも前向きな評価であり作品の価値をおとしめる意図は一切ないと断言しておいたうえで、いくつかご紹介します。

 


「つまらな楽しい」ゲームの例

日本国内において「つまらないけれど楽しい」の極北に位置するのが須田剛一作品です。最近の『Killer is Dead』や『ロリポップチェーンソー』では”つまらなく”なくなっていますが、須田氏の真価は『花と太陽と雨と』や『Killer7』の時点で遺憾なく発揮されています。前者はただただフラグを立てるだけの凡庸な見下ろし型アドベンチャー、後者はアクション性がかぎりなく0に近い FPS/アドベンチャー。

ゲームプレイだけ切り抜けば、独自色は薄く、古典的またはシンプルすぎるきらいすらあります。しかし、それを絵が・音が・物語が、つまり世界がくつがえすのです。積極的にプレイする気になどなろうはずもないゲームが、総合芸術としてゲームを構築する各パーツにより高度に昇華され、それはプレイヤーを熱狂へと導きます。すなわち、「ゲームを面白く感じる必要はない」のです。

 

すべてを上書きする圧倒的な魅力・世界観・説得力。
すべてを上書きする圧倒的な魅力・世界観・説得力。

 


「面白つらい」ゲームの例

 

「面白いけどつらい」。お気づきの方も多くいらっしゃるはず、ここに当てはめられるべきゲームは多数あります。むしろ、ゲームが個人により評価される際、ほとんどこのカテゴリから始まるでしょう。じつのところ、プレイした瞬間から「うおお! なんて楽しいゲームなんだ!」と燃え上がることは稀であり、それはゲームを数多くプレイすればするほど傾向は強まります。ようするにゲームに飽きるからです。新作に興味は持てど、似たようなあの作品とどうしても比べてしまう、あら探しをしてしまう……。オールドゲーマーの罪の1つであり、これを克服するには強靭な人間性が必要になると私は考えています。

ゆえにこの象限について例示と解説する必要性はあまりないのですが、私見として直近の事例をいくつかあげます。まず、PS2『北斗の拳 ~審判の双蒼星 拳豪列伝~』。その面白さは疑いようがなく、しかし格ゲー経験希薄・対戦相手不在・リアルアーケードプロ不調と、個人的にはプレイがきわめて”つらい”状況にあります。しかし、ひとたび起動してトレモを始めてしまえば、その膨大な学問の前につらさなどかき消えます。ある帝王は「つらいから愛は不要」と言っていましたが、それは順番が逆です。愛があればつらくなくなります。

 

いつもお世話になっております、戦犯でございます。 銀色に輝いてしまったグレードの件でございますが――
いつもお世話になっております、戦犯でございます。

銀色に輝いてしまったグレードの件でございますが――

 

PC『Counter-Strike: Global Offensive』とPC『Titanfall』も私にとっては同じ属性です。なにせゲーム内容が真剣すぎて楽しさが介在する余地がないのですから、いたしかたありません。酒を喰らいながらプレイするなんてもってのほか、エナジードリンクがゲーマーの間ではやるのもわかるというもの。……”つらい”と嘆くほかありません。しかし、最近では『Titanfall』の勝率・スコアがじわじわと上がっており、強いモチベーションになっています。グレードで完全に格上のチーム相手に辛勝したときの快感、どうお伝えしたものか。そう、”つらい”が”楽しい”に裏返った瞬間です。

 

こんな私ですがやるときは(それなりに)やります。 やれるのです。
こんな私ですがやるときは(それなりに)やります。

やれるのです。

 

厄介な「つまらなくてつらい(しかも割高だった)」ゲームについて。それは私たちの心のなかだけにしまっておきましょう。忘れるか、笑いのタネにするのがライフハックです。

 


面白さも楽しさもパーツごとに判断すべし

 

さて、ゲームの性質についてマトリクス的独自論を展開してきましたが、もう1つ重大な考え方をお伝えしなければなりません。それは「”面白い”と”楽しい”の2軸は、ゲームを総体として評価するときにのみ使われるとはかぎらない」というものです。

なんとも面倒くさい表記になってきたので、具体性を上げましょう。たとえば、ゲームの音楽。これを2軸で判断することは可能であり、健全です。同じく、SE、キャラクター、ボイスアクター、ストーリー、グラフィックス等など。ゲームシステムやメカニズムすら無視して、特定の要素だけに価値を見出しても一向にかまわないのです。

やや脱線気味になりますが続けましょう。そもそも、内容を十把一絡げにしてゲームの評価をくだすという行為はきわめて敷居が高く生半なプレイングの上では認められません。ましてや、数値による全面的な相対化などもってのほかです。かりにゲームを採点するとして、それはかならずその個人の意見であり、またすべては個人の体験を集約し反映したものでしかありえません。ゆえに私は Amazon のレビュー欄も Metacritic のレーティングもあまり信用していません。結局は、自分でプレイしてみないとわからないのですから。

世にあるレビュー・インプレションのたぐいはゲームの客観的評価ではありえません。「その人物がそう感じた」という参考材料にすぎないのです。

 


すべてはゲームの快楽のために

 

長々と書き連ねてしまいました。まとめます。

まず、”面白い”と”楽しい”は別物であり、ゲームの評価尺度として2軸を用いるのが妥当であろうということ。つぎに、”つまらない”や”つらい”は単独ではネガティブな材料とはならないということ。そして、ゲームの価値は総合的に決められるとはかぎらず、本来であればパーツ別に2軸評価したうえで個別の判定をうけるべきであるということ。

この2軸はあくまでも私、安田の個人的な感性です。ものの見方は人それぞれですし、私とて必ずしもすべてのゲームをこうした見方をもってして接しているわけではありません。

ではなぜそんな妙ちくりんな思考法をするのか? 学者ぶりたいのか? インテリぶりたいのか? 違います。あくまでも、自分と作品の「相対的な位置」を認識するためです。そうすることで何が起こるか、何を起こそうとしているのか? それは簡単です、ゲームを面白く・楽しく感じようとしているのです。

正しく自分の位置を把握できれば、前へ向いて歩みを進める(ゲームをプレイする)ことができます。誤った道を選び(ゲームの価値から逸脱したプレイングに走り)悲嘆にくれることもありません。ただただゲームを至上の娯楽として堪能するための手段にすぎません。

ゲームをプレイするということはすなわち快楽です。その快楽物質をさらにブーストさせるための脳内マスターベーション。それが、私にとっての”面白さ”・”楽しさ”軸、すなわち「理性と感情」なのです。

Nobuki Yasuda
Nobuki Yasuda
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