弊誌の編集長とともに『Hollow Knight』の紹介文の校正を進めているとき、ちょうど発売日が近づいていたこともあって、Nintendo Switchの話題が出た。いとも清らかな小遣い制度が採用された家庭の夫である編集長は、Switchを購入するためにはまず奥方という高い壁を突破しなければならないことを口にした。この発言に対する冗談のつもりで、私は「奥様のメトロイドヴァニアを攻略してください」と返答した。この返答は私の狙い通り編集長の不興をかったが、それと同時に、メトロイドヴァニアというジャンルは胎内回帰のイメージをこれ以上ない美しさで応用しているのかもしれない、というネオ澁澤龍彦めいた奇妙な考えを引き起こした。以下に記すのは、その乱暴な思いつきに知的な正当化を施すための覚え書きである。

語り始めるまえに、まずメトロイドヴァニアというジャンルの定義をはっきりさせておくべきだろう。このジャンルはその名が示す通り、『メトロイド』と『悪魔城ドラキュラ(英題:キャッスルヴァニア)』のゲーム性を融合させ、応用したものである。上下左右に連続した2Dのマップのなかで、キャラクターを操作して新しいアビリティを覚えさせ、そのアビリティによってさらに新しいエリアを探索していく『メトロイド』と、キャラクター強化の要素を強調して敵との戦いに戦略性をもたらした『悪魔城ドラキュラ』が結合することで、独特の快楽と中毒性を獲得したわけだ。このジャンルに属する作品群の多くはその外見的な美しさ、そして内部構造も、企画者たちがそう意図していないにもかかわらず、女性生殖器を模している。

この原稿はしかめ面をした論文ではないのだから、なぜダンジョンが女性生殖器なのかという証明にかかずらうのではなく、さらに大胆な比喩に進むべきだろう。ダンジョンの女性に対応して、プレイヤーが操作するキャラクターは男性生殖器、あるいは精子である。多くの場合、プレイヤーが操作することになるキャラクターは、その目的はさまざまながら、一様に外部からやってきてダンジョンのなかに入っていく。そもそもの始めから終わりまで、キャラクターは基本な動作――飛んだり跳ねたり――して、より奥へ奥へと進むことを志向する。

『Hollow Knight』における、ダンジョンの入り口の井戸とマップ。この「井戸」はとんでもなく深く、また内部は入り組んでいる。

キャラクターはダンジョンの内部をすみずみまで探索するが、はじめのうちはアビリティが足りないため、確実に到達することができない部分が存在する。キャラクターは別の任意の場所でボスを倒すなどし、新しいアビリティを獲得した後、それまで到達できなかった部分の探索を行うことができる。基本的に、あとはこの繰り返しだ。新たなエリアでまた到達できない部分を発見し、べつの任意の場所でボスを倒して新たな場所に進んでいくわけだ。

このアビリティの獲得を、受精したのちの胚分裂からつづく臓器の獲得と見るか、あるいは精子が卵子に到達しようとする試みの課程と見るかで、二通りの解釈を行うことができるだろう。もしも前者と見るならば、メトロイドヴァニアが体現しようとしているものは生命の神秘であり、また生物に植え込まれた生きる意志のあらわれであると結論づけることができる。なぜこの結論にいたるのかという理由はとても単純で、プレイヤーはシステムにそうしろと命じられたわけでもないのに、ひとりでに奥へ奥へと進もうとするからだ。

『Axiom Verge』のダンジョンの内観。このダンジョンは全体的に、どこかしら有機的なものを感じさせる組成を持っている。

開発者たちをキリスト教的な神と措定したうえで、この「奥に進みたくなる」現象を読み解いてみよう。神が自らの姿に似せて我々を創造したとき、また同時に我々に生きる意志を植え付けた。私たちの科学はその理由を、遺伝子という単位にまで分解して求めているが、この遺伝子は神によって書かれたプログラミング・コードにほかならない。それはシステムによる条件付けなのであって、命令というよりも指示、指示というよりも示唆のようなものである。私たちが誰にそうしろと命じられたわけでもないのに生き続けているのは、私たちがメトロイドヴァニアのダンジョンのなかに潜り込んだとき、誰に言われたわけでもないのに探索を続ける理由とまったく同義である。

私たちは開発者の思惑通りにゲームをする、つまりは性交を楽しむわけだが、その影響はつねに良いものである。なぜならそれは私たちの生きる意志の現れであるから。ちょっと飛躍した話だが、これは夜の喜びを忘れた「教育ママ」とビデオゲームの相性が悪い構図の理由になるだろうし、さらに敷延して、官能的な表現を取り締まろうとする現代の社会通念が、なんとも息苦しい閉塞感を生んでいる理由にも通じるだろう。だとすると、メトロイドヴァニアの美しさは草木が横溢する大自然のそれではないが、コンクリートの割れ目からしたたかに伸びてくる名も無き花の美しさなのだ。

さて、ダンジョンの奥へ奥へと進んでいこうとするプレイヤーキャラクターを、卵子に到達しようとする精子と見るならば、その試みを阻害しようとするあらゆる敵キャラクターや地形的制約は、劣った精子を選別するために複雑に入り組んだ膣構造と対応することができる。この対応は、よりロマンチックなものとして見ることができるだろう。というのも、この見方においてもやはり、プレイヤーキャラクターは誰に言われたわけでもないのに奥へ奥へと進んでいくからだ。ただしその目標達成の本能が、胚胎した生物としての欲求に基づくものではなく、精子という、いわば彼を生み出した主からの手紙を伝令するメッセンジャーの使命に還元されることから、よりその進行は純粋なものに感じられる。

Steamユーザー“Ghost_Russia”氏による『Ori and the Blind Forest』のマップ全景と、女性生殖器図。

プレイヤーキャラクターを精子と見るならば、プレイヤーキャラクターの性別について注意を払っておかなければならないだろう。メトロイドヴァニアのプレイヤーキャラクターは生物学的性別をはっきりと明示されることが少なく、またその性別が主題に関わることも少ないために無視されがちだが、ここで私は『メトロイド』のサムスが女性であることを指摘しておきたい。

人間の性別を決定する因子は、精子に含まれる染色体の種別である。X染色体をもつ精子によって受精すれば男性に、Y染色体をもつ精子によって受精すれば女性になる。これは大胆な発想の飛躍かもしれないが、私はあえてサムスを、Y染色体を持つ精子なのだと考えてみたい。というのは、サムスが女性であるという理由からではなく、サムスが女性性を司っているという理由からだ。『メトロイド』をクリアすることが受精の比喩であるならば、その結果生まれてくる新しい生物は女性であるだろうという発想は、だからといって何が変わるというわけではないが、楽しい想像ではないだろうか。

『大乱闘スマッシュブラザーズ』におけるサムス。感電し、女性的身体が露わになる。スマッシュブラザーズにおけるアリーナは、任天堂が生み出したキャラクターのフィクショナルな解剖のための施設なのかもしれない。

だとすれば、そもそもメトロイドヴァニアのプレイヤーキャラクターの性別がはっきりしない理由は、見かけ上の精子がどちらの染色体を持っているのかわからないという事情に帰着させることができるだろう。『メトロイド』のサムスはいかめしいスーツを着用していて、一目見ただけでは性別がわからない。『Ori and the Blind Forest』や『Hollow Knight』においても、キャラクターの性別ははっきりと明示されない。もちろん、しかるべき科学的診断を行えば、任意の精子がどちらの染色体を持っているのか判定することはできるだろう。しかし、我々が夜の現場で行う実際の性行為において、自分たちが望む染色体を持つ精子を受精させるなどという「性技」などあり得ない。だとすれば、プレイヤーキャラクターの性別が不明瞭なのは、我々にとって精子がもつ染色体の種類が不明確なこととぴったり対応するではないか。

さて、どのような想像をたくましくするにせよ確かなのは、開発者たちが実際にメトロイドヴァニアのゲームを作るとき、上記にしたような考えはまったく持っていなかったであろうということだ。こんな言い方を許してもらえるかどうかわからないが、私はある作品を鑑賞するとき、その作者が考えたり感じたりしていたことにまったく興味がない。興味があるのは、作者がその作品について、受け手にどのように感じて欲しいと思っていたか、またその期待から外れていたとしても、それ自体が楽しいと思えるような読み解き方ができるかどうかだ。

ジョルジュ・バタイユ、『エロティシズム』表紙。偶然の一致にすぎないが、「大乱闘スマッシュブラザーズ」の「感電」したサムスと対応している。

ここでもう一度、制作者が神であるという考え方に戻ってくることができるだろう。神は無意識のうちに人間が長く生きながらえられるようなコードを構築し、私たちの肉体に埋め込んだ。そのコードがどんな課程をもたらしたにせよ、結果として我々は今日まで生き延びている。それとまったく同様に、メトロイドヴァニアを、あるいはビデオゲームを構築する制作者たちの手は、無意識のうちに私たちを楽しませるためのコードを構築する。だとすれば――かなり大仰な言い方になってしまうが――制作者が作ったり、受け手が遊んだりする行為は、人間としての生活をすこしでも気楽なものにしようとする、崇高な営為にほかならない。

ここで神が自分に似せて人間を作ったという話が、より信憑性のあるものになるだろう。私たちは人間としての日々の生活を豊かなものにするために手を動かし続けるが、それはとりもなおさず愛撫の行為なのであって、知らず知らずのうちに作品を作ったりそれを鑑賞したりすることで、日々をすこしでも気楽なものにしようとしているわけだ。私たちの性的な行為に快楽が発生するのは、私たちがゲームを作るときに、あるいはプレイするときに快楽が発生することと対応する。

その快楽は本来の目的達成(生殖)の副次物でしかないが、目的達成時のより深い喜びを得るための助けとなるように、また挿入にあたる苦痛がすこしでも和らぐように、私たちは無意識のうちに行為の「滑り」をよくしておいたのである。メトロイドヴァニアのラスボスを倒したときに胚胎する子が、また新たな作品であることほど制作者にとって深い喜びはないだろうが、だからといって個人的な遊びに耽りつづけることは責められるべきではない。ゲームとの、あるいは人間との、一夜限りの燃えさかるような愛に身を浸したことのある者であれば、このあたりの事情はすぐに得心がいくものだと信じている。遊びのつもりでやったことが、思いがけない幸運な結果をもたらすのは、ベッドでもゲームでもおなじことなのだから。昔の人は良いことを言った――子供は天からの授かり物。