12月1日に国内リリースされたUbisoftの『Watch Dogs 2』。本作はハッカーグループDedSecの一員としてテック企業の陰謀を暴くオープンワールドゲームだ。DedSecの「PR活動」という名目の元、サンフランシスコの街を自由に駆け巡り、気分次第では破壊と殺戮の限りを尽くせるサンドボックス的な側面を持ったタイトルでもある。本誌でも紹介記事を書き、一通り遊び終えた筆者ではあるが、いまでも一つの違和感を拭えずにいる。主人公マーカスの性格はオープンワールドゲームの主人公に相応しくないのではないか、という疑問が頭を離れないのだ。

この疑問は「オープンワールドゲームの主人公というのは、犯罪、特に殺人を厭わない人物でないと不自然ではないか」と言い換えることもできる。単にオープンワールドといっても、ジャンルの定義が広すぎて戸惑うかもしれない。そこで本稿で扱うのは『Grand Theft Auto』『Mafia』『Sleeping Dogs』『Far Cry』といった現実世界に根ざした狭義のオープンワールドとする。ファンタジーやSF要素が強い『Fallout』『The Witcher』『The Elder Scrolls』といったシリーズは便宜上議論から除外する。価値観・世界観が現実世界のものから大きく異なるため、同じ文脈で語ることが難しいからだ。

さて、議論の対象を現実世界に根ざしたオープンワールドゲームに絞ったわけだが、物理演算や環境破壊の演出が現実の域を超えていたりと、描かれるリアリティには程度の差がある。だが、現実世界の人々や街並みを再現しつつ、その中で非現実的な戯れに励むという点では似ている。プレイヤーは現実に近い世界の中で、法や社会的な規制に縛られず、気が向くままに試行錯誤を重ねられる。これこそがオープンワールドゲームの魅力のひとつである。制約がないため、プレイヤーが操作するキャラクターは人を殺めやすい環境に置かれている。プレイヤーの気分次第でいくらでも犯罪に手を染められる。だからこそギャングやアウトローといった設定は馴染みやすい。『Grand Theft Auto』『Mafia』『Saints Row』シリーズの主人公が分かりやすい例だろう。いずれも罪の意識はないに等しい。彼/彼女なら罪のない人々の命も奪いかねない。そう思わせてくれるのだ。

 

エイデン・ピアースの狂気には説得力がある

初代『Watch Dogs』の主人公エイデン・ピアースについては、復讐のためなら手段を問わない男であることがストーリー内で示されていた。復讐とは直接関係のないターゲットに対しても過剰なアクションを取ることが多く、その言動の危うさから一般市民を巻き込んでもおかしくない佇まいがあった。キャラクターとしての出来栄えはイマイチであったが、少なくとも不道徳な行動に走ったとしても不自然ではない人物であり、先述の『Grand Theft Auto』や『Mafia』シリーズのように「この人ならやりかねない」と思わせてくれる主人公であった。

エイデンの悪行には説得力があり、キャラクターの性格とプレイヤーに与えられた自由とのギャップは狭かった
エイデンの悪行には説得力があり、キャラクターの性格とプレイヤーに与えられた自由とのギャップは狭かった

だがオープンワールドゲームでは無法者の主人公しか描けないとなると、ジャンルの幅が狭まってしまう。この問題を回避すべく、過去いくつかのタイトルでは、プレイヤーが取れる行動に制限を設けることで物語に説得力を持たせようとしてきた。たとえば『Far Cry 3』の主人公ジェイソンが攻撃を仕掛けられるのは自らの命を脅かす存在だけで、一般人には手を出せなかった。『Batman: Arkham Knight』では、一般市民はアーカム・シティから避難しており、そもそもバットマンは不殺を貫いているため敵をキルできない。一方の『Watch Dogs 2』ではこうした制限は設けられていない。

初代『Watch Dogs』のエイデン・ピアースは復讐に駆られ、負のエネルギーに満ちていた。対する『Watch Dogs 2』の主人公マーカスは、エイデンの反動で生まれたような陽気な兄ちゃんである。彼は物語の冒頭で、市民監視システムctOSの不当なプロファイリングにより、無実の罪を着せられていた。これに憤ったマーカスはハッキングの知識を駆使して権力に立ち向かうべくDedSecに加入する。オープニングシーンで「俺たちはハッカーだ、やつらの裏をかいてやるんだ。ファイアーウォールを突破してやろう」と語っているように、本来のマーカスは暴力に頼らず、あくまで頭脳で勝負するタイプの人間だ。愛用する武器も、非殺傷のスタンガンとビリヤードの球にパラコードを結んだサンダーボールの2つ。ストーリーの途中では、他のDedSec支部が暴動を起こしていることに否定的なスタンスを取っている。市民の支持を得るというDedSecの目的を考えても、暴力に走ることはプラスと言えないだろう。

このようにマーカスは良識のある人間であり、物語を進めるにつれ「人殺しなんてする人間じゃない」という印象が深まるばかりなのだ。それなのにプレイヤーはマーカスを操作して、いくらでもサンフランシスコの市民から命を奪うことができる。どれだけ騒ぎを起こしてもDedSecのフォロワー数が減るといったデメリットもない。自由気ままに騒動を起こす楽しさは、他のオープンワールドゲームと変わりないはずだが、マーカスの性格を考えると心のどこかでブレーキを踏んでしまうのだ。

何をやってもフォロワー数が減らないDedSec
何をやってもフォロワー数が減らないDedSec

ストーリー上で描かれるマーカスは絶対に人を殺さない人間なのかと聞かれると、たしかに怪しいシーンはある。具体的な言及は避けるが、ターゲットの無力化を目的とする「敵討ち」のミッションが分かりやすい例だろう。本作のメインミッションはDedSecのPR活動にフォーカスしているものが殆どだが、このミッションだけは異質である。ただ、「敵討ち」ミッションでもターゲットを「neutralize(無力化)」するだけの動機付けはされている。またミッションの目的はあくまでターゲットの無力化であり、相手をスタンするだけでもクリアとなる。プレイヤーに暴力が強制されることはない。

メインミッション中のゲームプレイに限ると、非殺傷こそが正道であることが複数のレイヤーで示唆されている。まず各ミッションはステルス行動を前提としたレベルデザインとなっており、力任せに正面突破することは難しい。主人公マーカスの体力は前作のエイデン・ピアースよりも少なく、銃撃戦に持ち込むと難易度が上がる。さらには敵に一度見つかると周囲全員のアラート(警戒度)が上がる。プレイヤーの行動を制限こそしないが、非殺傷を貫く方がスムーズに事が進むようになっている。つまりキャラクターの性格だけでなく、ストーリーに関わるメインミッションの構造上でも非殺傷が暗に推奨されているのだ。これらをプレイヤーに与えられた実際の行動オプションと照らし合わせた際に見えてくる深いギャップ。これこそ筆者が感じている違和感の正体である。

 

意図せず生まれた、価値のある違和感

では筆者が感じている違和感は、「悪い」違和感なのだろうか。先述の通りオープンワールドゲームの主人公には無法者が多い。そんな中、ひときわ目立つ良識と良心を主人公に備えさせることで、暴力に対する一種の気持ち悪さをプレイヤーに与えることに「成功」したともいえないだろうか。ここで筆者の頭の中に「Ubisoftはこの違和感をわざとゲームの中に仕込んだのではないか」という疑念が湧いた。というのも、Ubisoftにはゲームの暴力性を自己言及的に批判して見せた『Far Cry 3』という前例があるからだ。『Far Cry 3』の脚本家であるJeffrey Yohalem氏が海外メディアRockPaperShotgunとのインタビューで語ったように、同作には表面だけ見てプレイしていても気付かない「ビデオゲームにおける暴力への批判」が込められていた。その後ファンによる考察も相次いだわけだが、本稿の主旨からは逸れていくため割愛する。

再び『Watch Dogs 2』の物語に目を向けてみよう。ビッグデータを使った不当なプロファイリング、AIによる統制、人々の感情をコントロールするソーシャルメディア、サンフランシスコ特有のテック企業ワーカーに対する不満といった社会問題の描写はあれど、暴力に対する明確な批判は見当たらない。『Far Cry 3』の主人公ジェイソンが暴力の世界に飲まれていったような心情の変化も、マーカスには見られない。それにサンフランシスコの街は『Far Cry 3』のルークアイランドのような無法者の楽園ではない。単純に両者を比較することは難しい。となると『Watch Dogs 2』が意図して暴力への違和感を仕込んだというのは早計だろう。明確に示さないだけで暗に批判している、という可能性も残ってはいるが、こればかりは開発者の言葉を得ない限りは判断できない。

開発陣にとってどこまでが計算の内なのだろうか
開発陣にとってどこまでが計算の内なのだろうか

本作の違和感が意図せずに生まれたものだとしたら、違和感を拭うためにもプレイヤーの自由を制限すべきなのだろうか。そう問われると、素直にイエスとは答えられない自分がいる。プレイヤーから暴力ならびに銃を奪えばゲームの売上に直結してくるだろう。銃を捨てられないのが、トリプルA級のオープンワールドゲームを開発するUbisoftの定めだ。オープンワールドゲームにおいて等しく殺人兵器である「銃」と「移動するための車両」はもはや不可欠の要素であり、簡単に取り除くことはできない。

前作『Watch Dogs』の反動で生まれた軽く陽気なキャラクター・ストーリーと、暴力と自由を捨てられない(捨てるわけにはいかない)トリプルA級オープンワールドゲームという制約との狭間で生まれた一種の気持ち悪さ。奇しくも、意図せずして生まれたのであろうこの違和感は、暴力への批判が意図的に仕組まれた『Far Cry 3』のように、暴力について一考する機会をプレイヤーに与える結果になったと考える。それは同時に、「良識のある人間を主人公にすると、ゲーム側が提示する物語とプレイヤーに与えられた自由との間に不一致が生じてしまう」というオープンワールドゲームがはらむ問題を露わにしたということでもある。この2つの意味で『Watch Dogs 2』はオープンワールドというジャンルを前に進める上で意義のある作品といえるだろう。

さて、違和感の正体を暴き、正当化できたということで、気兼ねなくサンフランシスコの街を破壊し尽くすとしよう。