許されざるゲームはありうるのか
さて、ではどういうゲームが本当にダメなのか? 重い十字架で潰されるべきなのか? というテーマに突き当たります。ネットを見渡せば右も左も罵詈雑言の嵐、渦巻く怨嗟の声、燃え上がる火柱。しかし、そのほとんどがたいてい偏見と私怨です。
ゲームは芸術であり文化でもありますが、それ以前に(ごく一部を除き)商品です。人が創って組織が売って、誰かがカネを払って循環する。ごく当然の経済です。大前提としてそれを認識しなければ激しい誤謬を犯しかねません。
無論、私にも好き嫌いはあります。明快に愛を表現したい作品もあれば、その真逆「これはシャレになっていないんじゃないか」もあります。しかし、本 稿には特 定の作品やクリエイター、ゲーム関連企業を褒めそやしたり、あるいは貶めたりする意図は込めていません。あえて言うなれば、よくある”批判”にたいする批 判です。
まず、「許されてしかるべき」点から。
許1: 面白くない
昨日の記事の とおりです。ゲームが面白くない ことは悪ではありません。バランスが悪い、テンポが悪い、ストーリーが悪い、その他諸々……。すべては受け止め方次第です。それらに”常識”があることは 間違いありません。ただ、それを踏襲していないことを批判の対象とするのは的外れです。
何にでも言えることかもしれませんが、やっていて「面白くない」と感じるときは自分が面白くない人間になってるだけのケースが多々あります。後ろ向きな心境でゲームに臨んで、どうして楽しくなりましょう。
許2: バグがある
よく「バグがあるからダメ」という意見を見かけます。なぜダメなのでしょうか。そもそもゲームの挙動をいちユーザーがほんのわずかなプレイを理由にバグ呼ばわりするという態度が珍妙なのですが、それ以前にも問題があります。
というのは、バグがあろうとなかろうと良いものは良いし、またバグがゲームをさらなる高みへと押し上げることもありえるからです。どうしても着火したくてしかたがないのならば、”ゲームの価値をスポイルするバグ”を指摘するべきでしょう。
唯一危険であると判断しうるのは、ゲームプレイの時間軸に直接的な影響を及ぼすものだけです。具体的には進行不能バグならびにフリーズ。ただし、” 進行不 能”も”詰み”と解釈すれば許容できますし(一昔前にしばしば見かけた詰みセーブなど)、フリーズも回避するのがゲームのうちと考えれば受け入れられます ――やや力技ですが。
『ロックマンX』回収騒動は昔話になりました。
バグとか仕様とか最初に言い出したのは誰なのかしら。
許3: 敷居が高すぎる
難しすぎる、クリアさせる気がない、操作がわかりづらい、その他。これには2つの考え方があります。まず1つ目、甘えであるケース。もう1つが、そもそもプレイするべきでないケースです。
言葉を選ばずに言えば、「敷居が高い」などという言い様自体が生ぬるいのです。所詮ゲームの入力に使うのはコンシューマ機でならせいぜい10個のボタンにいくつかのレバー、PCでもマウスにキーボードです。特殊なコントローラを用いる異形の作品についての話は別として、普通は多少の執念さえあればどうにかなります。
そして、それを踏まえてなお無理なこともあります。猶予フレームなしのビタ押し連打、画面を埋め尽くし当たり判定すら判別不能な弾幕、どう頭をひ ねっても勝 てない AI。それらに出会ったとき、”敷居”を持ち出すべきではありません。あくまでも、自らの身の丈に合っていないだけなのですから。たとえば私の場合、ウメ ハラ氏と『スパ4』を100万回対戦しても1勝すらできないでしょうし、羽生名人と将棋で対戦するとすれば輪廻転生したほうが手っ取り早いでしょう。
特定のコンテンツはそれを消化する層向けピンポイントに創らており、それを認めなければなりません。自分がその住人でないからといって嘆く必要もありません。
無理だと思ったら手を出さないだけのこと。
許4: ハードウェアの制約
あのハードで出ていないから。ぼくの持っていないハードで出ないから。しかし、人生は配られたカードで勝負するしかないとビーグル犬でも知っています。
とはいえ、金銭面でのボトルネックは否定できません。最低賃金50時間分のハードを買えない云々ではなく、住宅事情の問題です。Kinect の誇る名作『Dance Central』シリーズを日本国内でプレイするにあたり最大の敵は階下の住人と部屋の容積でした。これは厳密にはカネで解決できますが、あまりにも乱暴 なロジックです。
では Kinect が許されざる存在だったか、というとそんなはずはありません。憎むならばゲームソフトやハードでなく日本の国土面積に矛先を向けましょう。とにかく、ハードウェアと価値は突き詰めてしまうと無縁なのです。
許5: DLC・課金商法
最近ホットな DLC 商法や課金商法にはいくつかのタイプと側面があるので一口には判断できません。しかし、原則的に許されてしかるべきです。 とくに「DLC だと思ったら最初からメディアに収録されているものをアンロックするためだけのキーだった!信じられない!」といった非難は支離滅裂です。
コンテンツは製作すればする分コストがかかるのですから、キャラ単位・マップ単位等でマネタイズするのは当然です。むしろ、(リスクは相応にありますが)「遊び」の要素を織り 込んでくれているとすら考えられます。
悪質である可能性があるのは、あきらかに製作費用とコンテンツがアンバランスな場合です。しかし情報の流動化したご時世にあっては、それを明示せず 隠し通すことなどほぼ不可能です。現代では、価格と価値の不均衡は”お布施”のいち手段として機能しています。創り手にカネを払いたくて仕方がない人を止 める理由はどこにもありません。
なお、待機時間短縮形に代表される「時間をカネで買う」ものも不思議な形ではありません。人の財布を笑うのはよしましょう。ただ、そうした行為による自己実現の是非や、買った時間分のゲームは一体どこに消え去るのかといった問題は別です。
許6: 未完成品
もはや議論の余地なく許されるでしょう。Kickstarter はじめ各種クラウドファンディングでファン獲得に成功したプロジェクトがアルファ版公開なしに完成まで延々秘密主義を守り通していたら、それは不誠実です らあります。時代は変わりました。『Minecraft』も最初はどこをどう切り出しても完全に、名実ともに未完成品でした。ただし、完成度と面白さやポ テンシャルは別です。
パッケージソフトを未完成状態でリリースすることに生理的嫌悪感を覚える方も多くいらっしゃるでしょう。しかし、徐々に環境は変わりつつあります。仮に未完成品にフルプライスを払うことになったとしても、それがいつか完成品になるのならば両手を広げて迎え入れるべきです。
深刻なのは、未完成品がそのまま放置される事態だけです。
許7: タイトルとの不一致
あの IP が!ナンバリングタイトルが!こんな別物に!……いいじゃないですか、それくらい。むしろ既存の価値観をかなぐり捨てリスクを取り新しい面白さに挑戦すること、これは偉大です。仮にそれがファンの期待を裏切ることになろうとも。
続編への違和感は、嫌な体験ではありません。その感覚を飲み込み消化したとき、次なる地平が見いだされることでしょう。
よく「売るためにあの IP を切り売りしている!」といった論調を見かけますが、これは微妙なところ。総合的に判断して資産価値を目減りさせているのか、それとも実質的な価値を生み 出す方法が他にないのか外野からは判別不可能だからです。
パチスロで見かけたあの素晴らしい IP にいくらの値をつけるのかは、結局ファン自身です。
許8: 高い
まずゲームは安すぎると以前述べたとおり、そもそもゲームは安価です。数割売値が変動したところでその事実は揺らぎません。相当な低ボリュームであっさり遊び終えてしまえるとしても、きっと別の趣味に比べれば安いものです。
製作にかかったであろうコストと釣り合いがとれていないとみられるケース、これについては「高い」と断じてかまわないでしょう。しかし上述したとお り 2013年度時点ではその高値をユーザーに押し付けたり売り抜けたりすることのほうが困難です。高いと感じたなら買わずに別の道を選ぶくらいには選択肢が 用意されていることを忘れてはなりません。
許9: 後進的
「昔のハードのゲームみたいだ!」「グラフィックがチープ!」の系統も 無意味な言説です。何度でも言いますが、私が世界で唯一100点をつける『SPIKEOUT FINAL EDITION』は1999年のゲームです。今後その価値が下落することはありえません。文字通りの「不朽」です。
視覚的にリッチでないことをゲームに直接紐付けるのは間違っています。ゲームが総合芸術とはいえ、ゲームプレイとグラフィックスは相関関係にあるわけではありません。もしそうだとすれば、ベンチマークソフトを走らせることが最高のゲームだということになるでしょう。
どちらかといえば、装飾過多な作品にこそ眉に唾つけ接するべきです。製作するリソースをデコレーション方面に大きく配分した作品が「面白い」かどうかははなはだ怪しいでしょうから。
これで充分なのでは?
許10: ユーザーの意見を反映しない
ユーザーの意見を拒否する、無視する、裏切る。これらはいずれもゲームの価値とは直結しません。フィードバックを受け取ったからといっていちいち反 映していた らゲームはいつまでたっても完成しないでしょう。なにより、「そのフィードバックが正しいのか」という永遠のテーマから脱却できません。
プレイヤーの意見など安い鼻紙のようなもの……とまでは言いませんが、創造主が絶対に遵守すべき法ではありえません。ゲームの面白さはプレイヤーが 決めると しましたが、それはあくまでも完成品に対峙したケースのみ。アルファ版から段階的に組み上げていくゲーム製作においては、クリエイターの意志だけが作品に 反映されていれば充分です。卵と鶏の順序ははっきりしています。
声高に、そして大規模にブーイングが浴びせられるシーンすら、創り手の発想に欠陥があるとは限りません。懐古主義に陥らず現状だけにフォーカスすれ ば、存外別の顔が見えてくるものです。それが無理なら、それが引き際というもの。大声張り上げてもあまりいいことはありません。
さて、これにてたいていのことが許されました。ぱっと思いついたものを並べただけですので無謬とはまったく思っていませんが、少なくともこういう考えでゲームを受け入れる人間もいるということです。 では、許されざるゲームはあるのか。あえて定義するならたった1つです。
不許: 嘘をついている
ユーザーの期待や予想を裏切る行為のことではありません。あくまでも”嘘”です。どちらかといえば虚言や妄言と言い換えるべきでしょうか。これにはジャンルもプラットフォームも価格も関係ありません。
言っていることとやっていることがまったく異なるケース。技術的に理想へたどりつけなかったのではなく、対外的に発表していた内容と実質的なコンセプトに根本的な乖離がある状態。ようするに詐欺。これだけは断罪されるべきです。
そんなものほとんどないだろう……そう、ほとんどありません。そんな曲芸めいたプロモーションをすることの方がむしろ難しいからです。しかしつまり、ごくわずかながら実在します。
これこそが「本当にヤバかったあのゲーム」であり、私がプレイするだけで目眩と嘔吐感に苛まれ、プレイしてしまったことを後悔し、カネはともかく時間だけでも返してくれと切に願う、存在してはならないゲームです。
人生どれだけゲームをやってきたか覚えていませんが、そうした邪悪なタイトルは片手で数えるほどしか思い浮かばないというのが、ゲームの何より良いところなのかもしれません。やはりゲームはクリーンな娯楽です。