「開発者のセーブデータ」 第三回 “世界最高齢のゲームプログラマに” スパイク・チュンソフト 中村光一氏 インタビュー

スパイク・チュンソフト代表取締役会長である中村光一氏と、聞き手としてアクティブゲーミングメディアの中西一彦氏が登場するインタビューも、今回が最終回。第三回では、中村氏が見てきたゲーム業界のここ30年間と、これからエンターテイメントがどうなっていくのかなど、業界的な視点から話を聞く。

1983年、任天堂、「ファミリーコンピュータ」を発売。それまでアーケードゲームに代表されていた日本のゲームシーンは、“家庭内でゲームハードを買ってソフトを遊ぶ”という家庭用ゲームへと徐々に切り替わっていった。家庭用ゲーム黎明期に開発者として生まれ業界に関わってきた“当時の若人たち”は、30年が経ち激動のゲーム史をどう振り返るのだろうか。

「開発者のセーブデータ」は、家庭用ゲームの業界が勃興し始めた約30年前に開発者として生まれた“当時の若者たち”をインタビューする連載企画。当時20代だった若者たちが、自身のルーツやこの30年間の開発秘話、そして現代の若者たちへ向けたメッセージを語る。

スパイク・チュンソフト代表取締役会長である中村光一氏と、聞き手としてアクティブゲーミングメディアの中西一彦氏が登場するインタビューも、今回が最終回。第三回では、中村氏が見てきたゲーム業界のここ30年間と、これからエンターテイメントがどうなっていくのかなど、業界的な視点から話を聞く。

中西氏:
次はちょっと角度を変えて、30年間のゲーム市場の変化についてのお話を聞いたいと思います。ゲームの創世記から関わってきたことを考えると、ゲームの市場は大きく変わってきていると思うんですね。たとえば入力デバイスだと、最初の頃は『ポン』のようなゲームってダイヤルコントローラでプレイしてましたし、次は『スペースインベーダー』ではボタンとジョイスティック、ファミコンが出てきたら手に持つコントローラ。その後はみなさんご存知だと思いますけど、今はスマートフォンでスワイプする。CPUの問題でいえば、30年前と今のものではもう桁を比べられないくらいの差があると思うんです。ほかにもゲームの提供の仕方では、最初はカセットテープだったりフロッピーだったりしたものが、ROMがでてきて、いまはもうダウンロードで遊べるようになって。

ずっとゲームの仕事をされてきて、時代の変遷の例を3つぐらい挙げましたけど、今までどういったことに着目して来られましたか。また、この30年の変化っていうのは、どう思われてますか。

developers-save-003-kouichi-nakamura-001中村氏:
1つはハードそのものの進化っていうのかな。明らかに自分がイメージしたよりは早い、倍速ぐらい。スマホをみんな持っていて、ここに入っているコンピュータってめちゃくちゃ高速で、容量もすごくて、たぶんこのなかに『ドラゴンクエスト』って何万本って入るんだよね。これが当然さらに無線で繋がっていて、いろんな情報が同時にアクセスできてみたいなことっていうのは、なんとなく自分が死ぬぐらいの時代になるのかなあと初代『ドラゴンクエスト』作ってた時は思い描いてた。だから今からあと30年後ぐらいにそういう時代がくるかもなあと思ってたんだけども、ぜんぜん早かったなあって。

今は2045年頃にコンピュータが人間の頭脳を追い越すっていわれてますよね。本当にそういう時代がくるんだなあって。ゲームに限らず、技術が進化している途中の面白い時代に生きてるなあって。たとえば車なんかの自動運転なんかも、本当に完成して広まってしまったらつまんないんだと思うんだよね。電車乗ってるのと同じで、行き先を決めたら勝手に行ってくれるようになる感じ。でも今はそうじゃなくて、前の車にぶつからないように止まったりとか、自動運転とはいえ100パーセントではないみたいな、ちょうど移行期っていうのか、その車を自分が乗ってることも実感できて、次はどうなるんだろうと思うとすごい面白いなあって。車なんで突拍子もないことは絶対やってくれないと思うんだけど、でもやっぱり技術的な目で見てても楽しいなあと思う。

もちろんゲームも、今はほら「VR」とか。昔やってた未来はこうなるっていう特集とかでやってたことが、本当にどんどん実現化していってるなあというのは、すごい刺激的。さっきちょっと話したけども、そういった新しいデバイスとか入力方法が出るたびに、今まで体験できなかった面白さがそこにはあって。その時に新しいヒット作が生まれるっていうのが、この業界の面白いところだなあと、ホントに常々思っています。それが結構な速さでどんどん変わっていくので、面白いなあと。

あと一番最初の頃のゲームって、100円入れてやるものだったと思うんですよね。最初は1分しか遊べなかったのにだんだんと上手になって、100円で20分とか30分遊べるようになるのが楽しくって。それがファミコンの登場でパッケージっていう考え方になって、まとめて全部エンディングまで買って3,000円ですよ4,000円ですよって。買っちゃった以上は、そのパッケージをどこまでプレイするかみたいなのが遊び方だった。それが今度はネットでダウンロードできるようになって、しかもダウンロードも最初はパッケージ的な発想で買ってたりしてたのが、だんだんアイテム課金も入ってきて、ゲーム本体が無料になって広告型やアイテム課金型であったりとかという形になってきて。お金のかかり方っていうのかな、そういう意味でのお客さんとメーカーとのお金の関係っていうのが、すごい変わってきてますよね。

今は基本無料のダウンロードが主流なんで、お金を払ってもらうところのハードルはすっごい高くなった。落としてもらうのもなかなかいかないでしょ。興味を持ってもらうところがもはやハードル高くって。やってもらって、つまんなかったらすぐに終わりで、3日連続でやってもらえればっていう。そこまでいくのが大変な時代になっていて、そういう意味でも変わったなあと。

中西氏:
そうですよね。30年間の市場の変遷はひと言では言えないくらいの変化でした。それを実体験出来た我々は生き字引ですかね(笑)。

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中西氏:
それから、これまでにゲームを作る上において、この技術がもうちょっと先に進んでたらよかったのになあと思ったことってありますか。

中村氏:
ちょっと話が違うかもしんないんだけど、日本では映画の冠がついてるやつとか実写モノはもう最初っから売れないみたいな風潮がある。『街』を出した時には、実写だからダメだっていわれて、売れなくってすごく悔しかった。結果として作品はすごい評価されて、それこそファミ通のユーザーが選ぶランキングに何年もずっとベスト10入りしていたりしたぐらい。あの時には初期の頃、実写の面白くないタイトルが続いたっていうのがその大きな理由だと思うんで、一番最初に実写のゲームはこうですよって出せたら、評価変わってたかもなっていう風に思ったことはすごくある。あの時にもっと早く作りたかったなあって(笑)。

CD-ROMによる大容量化っていうのをもっと先に見越して作ることができていれば、それができていたのかなあって考えると、次に来るハードウェア的な技術とかを見越して、こういう技術ができるはずだからこういうエンターテイメントを準備しておこうっていうのがもしできたら、一番最初になれるかもなっていう気はする。まあチャレンジなんでね。そういうハードが出てこなかったらダメだけど。でも会社の規模が大きくなってハードごと提供できる立場になれば、それはできるようになるし。

中西氏:
未来の話になるんですけど、30年後ってもう我々は80歳を超えています(笑)。過去30年間は自分の感じた倍のスピードぐらいで技術が進歩しているということなんで、たぶん予想するのって非常に難しいかなあって思うんですけども、ゲーム業界とか世の中ってどうなっていくんでしょうね。我々の楽しみ、エンターテイメントはどういったものになっていくのか。

中村氏:
ネットとかコンピュータデバイスの発達によって、エンターテイメントとか文字とか音楽とかゲームもそうだけど、明らかに値段は下がったんだよね。だから今までは明確なプロという、ある一定以上の人がお金を出してでもこれを楽しみたいというものしか、世の中には出てこなかった。そこには出版社だったら編集さんだったり、音楽だったらプロデューサーさんだったりとか、そういう人たちが判断をして世に出していて、お前はまだ力が足りないからもうちょっと修行しろとかそういうのがあった。

でもなんかもう、今は修行段階から少しずつ世の中の人に見てもらうような場所ができていて、それがゆえに安くなってるんだよね、情報が。あらゆる情報の値段が安くなっている。だって新聞なんかもそうでしょ。ネットの方が早いし、新聞を紙で買う必要もないし。現場の速報とか、下手したらメディアに関係ない人たちが書き込んだりTwitterで上げたりする方が早かったりとか。

今後、AIに代表されるようにコンピュータ自身が情報を作っていくようになって、もっと情報は安くなっていくと思う。そうすると本当にいろんなものが安くなっていって、色んなものを簡単にお気軽に楽しめるようになる分、従来それを生業として稼いでいた職業の人たちの稼ぎどころがなくなっていくなあっていうのが(笑)。それはちょっと危惧してる。最近AIが作った小説が発表されたりしてて、音楽なんかもそうだし、ゲームもそのうちコンピュータで作られちゃうんじゃないかと思うと、ちょっとねえ。

――悲しいですね。

中村氏:
悲しいよね。僕らどうしたらいんだろうとかね。まあその時はその時で、また新しい何かが現れるのかなあとは思うけど。

中西氏:
各個人の好みに合わせてカスタマイズされたゲームとか提供されたあかつきには、どうしましょうってなりますよね。

中村氏:
ただ、まだまだ楽しいとは思う。まだまだどうなるかわかんないみたいな。

――まだまだゲーム業界には関わっていきたいですか?

中村氏:
ゲーム業界……というかコンピュータという軸があって、その周りで驚かせたり楽しませたりすることがこの先もできたらいいなあと思います。

中西氏:
20代の開発者やインディーゲームの開発者、これからクリエイターになろうという若い人たちに向けたメッセージなどもいただきたいなと思います。

中村氏:
なんだろうなあ……。

――たとえば近年は日本でもインディーデベロッパーという形で、個人や少人数チームでゲーム開発を始める形が増えています。そういう意味では中村さんが学生時代に開発会社を立ち上げられたのは、すごく似ている部分があると思います。

中村氏:
ああ、そういうのはぜひ積極的にやってもらいたいなあと思いますね。ただ、1人で作るっていう人もいるとは思うんですけど、僕としては自分1人でプログラムも絵も音楽も作れてって、そんなマルチな才能の人ってなかなかいないと思うので、やっぱりある程度は気の合う仲間とグループで作るのがいいかなあと。

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――実際に中村さんが会社を設立された際、5人の初期メンバーが出会ったきっかけはなんだったんですか。

中村氏:
5人のうち2人は高校時代の同じサークルで、自分と同じように一緒に東京に来て大学に行ったメンバー。あとの3人は中西さんを始め、大学のクラスの仲間だった。きっかけは学校だよね。学校のなかで、しかも同じような趣味の人たち。ゲーム好きの仲間が集って議論するってことかな。今もそういうスタイルを僕はやっていて、いわゆるブレインストーミング形式で、集まってアイディアを出し合って磨きをかけていくという方法。やっぱり1人で考えても限界があるっていうのかな。大勢の知恵を絞って転がしていくところで、自分はそういうつもりで言ってないアイディアが、別の人が聞いた瞬間に広がっていったりとか、そういったことはよくある。もちろん価値観とか気の合う仲間の方がそういう話はしやすいし、楽しいなあと思ってます。

今ってインディー系の数人のスタジオが作ったタイトルが大ヒットしたりするよね。

――そうですね。1人の開発者が作ったゲームがダウンロードを通じてミリオンというのもたまに目にしますし、それこそ『Minecraft』のようなものもありますし。

中村氏:
夢があるよね(笑)

中西氏:
いや、まだまだ夢はありますから。

中村氏:
ね。

――中村さんはいま夢ってありますか?

中村氏:
夢ねえ(笑)。これからもヒット作は作りたいなと。それは夢じゃなくて現実だろうと(笑)。がんばれ、とかいわれそうですけど。

ああそうそう、このあいだ『ドラゴンクエスト』のコンサートがあって、その時にサプライズで「ギネスブック」の人から、「世界最高齢でゲーム音楽を作った」っていう記録で、すぎやま先生が表彰された。

で、ちょうど『ドラゴンクエスト』が30周年で、先生も85歳になられて、すぎやま先生が初代『ドラゴンクエスト』の音楽を作った時が55歳だったんだよね。それって今の僕の歳よりもまだ上なんだよね(笑)。そこから30年間『ドラゴンクエスト』の曲作り続けてるってすごいなと思って。だからまだまだ自分も頑張らなきゃと、思った。「世界最高齢でゲームのプログラマ」というのを目指そうかなあと(笑)。

中西氏:
そこは、やっぱりプログラマのね(笑)。

中村氏:
いやでもねえ、プログラマとしては現場はもう離れてるからねえ、一からやり直さないといけない(笑)。

――(笑)。でも、実際にプログラマとしてふたたび現場に立つことにご興味は?

中村氏:
それはやっぱり思うね。よく現場の人に「いやあ、それはちょっとできないんですよねえ……」とかいわれて、本当にできないのかって自分でちょっとね(笑)。できるだろっていう。

中西氏:
本当に。これからも80歳を超えるまでぜひ元気にゲームを作ってください(笑)。

――ありがとうございました。

 

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[聞き手 Kazuhiko Nakanishi]
[編集校正・取材アシスタント Shuji Ishimoto]
[写真撮影 Mon Gonzalez]

 


 

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中村さんへのインタビューをした後、チュンソフト設立当時にオフィスとして使用していたマンションに訪れてみたくなり、数日後に調布に足を運びました。調布は新宿から西に向かう京王線の特急電車で15分程度のところに位置しています。

当時の調布駅は地上に電車が走り、駅前には八百屋さんや魚屋さん、本屋さんがあったと記憶していますが、今では電車は地下を走り、駅前にはPARCOが建ち、線路があった場所にもビルが建設中で、32年前の面影がありません。設立当時のマンションは調布駅北口から徒歩3分程度の旧甲州街道沿いにあり、現在も実在しています。

当時は真横にビルが建っていた箇所が、今では更地と化し駐車場になっています。旧甲州街道から当時のマンションの一室のドアが見えた時に、当時、大学の授業や部活動の合間にこのマンションの一室に集まっていて、まるで部室の様だった事を思い出しました。

調布では一回引っ越しをしています。短い間しか使わなかった2つめのオフィスも近く、もっと調布駅寄りにあります。同じマンションの一室には水木プロダクションさんが入っていましたが、ネットで調べると今でもこのマンションにあるみたいです。

大学に向かう時は、天神通りと呼ばれる商店街を通ったのですが、この通りには鬼太郎やねずみ男等の水木さんのキャラクターが置いてあります。大学もオフィスから歩いて5分程度の場所にあります。大学のキャンパスも当時からあった建物に加えて新しい大きなビルが建っており、ここも昔の面影が少なく寂しかったです。私が部活をしていた体育館も数年前に新しくなった様です。授業に出なくてもチュンソフトと体育館を往復したこともありました。帰りには当時良く通った居酒屋や食べ物屋のあった場所に寄りましたが、ほとんどが30年以上前と変わっており、カレー屋さんのカレンドさんを見つけた時は涙が出そうでした。それだけ30年と言う月日は長いと言うことですね。

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当時、いくら使ったかわからない位お金を使った駅の近くのゲームセンターのモナコは、現存していました。仕事中に遊びに行って長時間当時流行のゲームを遊んだり、取引先から電話があり当時は携帯電話やポケベルが無かったので呼び出しに行ったりしました。この近くには中村さんに良く鰻弁当を頼まれた行きつけのお弁当屋さんがありましたが残念ながら別のお店に変わっていました。まだ残っているモナコに今度遊びに行こうと思います。

[編集後記 Kazuhiko Nakanishi]
[写真撮影 Kazuhiko Nakanishi, Shuji Ishimoto]

Shuji Ishimoto
Shuji Ishimoto

初代PlayStationやドリームキャスト時代の野心的な作品、2000年代後半の国内フリーゲーム文化に精神を支配されている巨漢ゲーマー。最近はインディーゲームのカタログを眺めたり遊んだりしながら1人ニヤニヤ。ホラージャンルやグロテスクかつ奇妙な表現の作品も好きだが、ノミの心臓なので現実世界の心霊現象には弱い。とにかく心がトキメイたものを追っていくスタイル。

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