書評『家庭用ゲーム機興亡史』 コンシューマゲームハードの始まりから現在まで

昨年2013年はファミリーコンピュータ発売30周年記念の年であった。そのためファミコン関連のイベントが企画されたり、書籍が刊行されたりと、これまでの家庭用ゲーム機の歴史をふりかえる試みがいくつもなされた。2014年5月の刊行ではあるが、本書もそういった時流に乗ったものであろう。

著者の前田尋之氏は1972年生まれのテクニカルライター。徳間書店インターメディアでパソコンゲーム誌の編集に関わり、のちにコナミなどを経て、現在はコンサルタントもつとめている。

ファミコン30周年のタイミングで刊行された書籍や雑誌には様々なタイプがある。子供時代のノスタルジーを強調した思い出話、ゲームハードやソフトの網羅的なカタログ、当事者の証言から描かれる歴史本等など。そういった中では本書はゲーム産業に焦点をあてたものである。特に時代ごとの家庭用ゲーム機のシェア争いを専門用語などをなるべく使わずにわかりやすく解説している。

本書の歴史記述はファミコン登場前夜から現在のハードまでカバーしている。基本的にどの章も中心となるハードの紹介、そのバリエーションと周辺機器の紹介、シェア争いの結果という構成で書かれている。ファミコンの覇権、プレイステーションの躍進、セガの家庭用ゲーム機撤退とその多くはゲーマーなら当然知っている部分が多い。そのため今回はそういった有名な事件は適宜省略しつつ本書を紹介したい。

 

ファミコン30周年と共に様々な書籍が刊行された。本書もその一つに数えることができる。
ファミコン30周年と共に様々な書籍が刊行された。本書もその一つに数えることができる。

 


ファミコン前夜と家庭用ゲーム機市場の成立

 

歴史はファミコン登場前夜から描かれる。現在は家庭用ゲーム機の普及率が高い日本だが、その歴史が始まったのはアメリカからだ。本書では1975年に発売されたAtariのHOME-PONGが、初の家庭用ゲーム機として紹介されている。実際には1972年に発売されたMagnavoxのOdysseyが家庭用ゲーム機としては先んじているのだが、本書では触れられていない。当時の家庭用ゲーム機は、アナログ回路を利用したものでハードごとに遊べるゲームは限られていた。国産のものも多く製作され、任天堂からはテレビゲーム6やテレビゲーム15、他にもエポック社、バンダイ、トミーなどからも発売している。

しかしながら、現在の家庭用ゲーム機の直接の祖先となるのはAtari VCS(2600)であろう。画期的であったのはソフトウェアとハードウェアを分離していたことだ。世界初のROMカートリッジ式ゲーム機としてはFairchild Channel Fが先んじていた。だが、Atari VCSの功績は単なるハードウェアとしての革新性だけではない。ゲームソフト開発自体を自立的な産業として育てたことが、のちのゲーム産業にとって決定的となった。本書ではAtariを退職した人々が創設したActivisionの他、BrøderbundやElectronic ArtsといったPCゲームの最古参のソフトメーカーが紹介されている。

このように家庭用ゲーム機市場は北米で誕生した。だが、この市場はそれほど長続きせず、1982年から1985年にかけてもろくも崩れさった。周知のとおり、アタリショックの影響だ。日本ではこの現象をサードパーティによるソフトの粗製乱造によって引き起こったバブルの崩壊として語られることが多い。しかしながら、現在ではこの見方は一面的なものとされる。いわゆる"クソゲー"が乱発されたことは事実だが、この北米ゲーム産業の崩壊は市場飽和や供給過剰、安価なホビーパソコンの登場、専門メディアの未成熟など多面的な出来事が影響して起こった現象である。本書ではそれらについて詳細には触れられていないが、そもそもゲーム市場が形成される前の一時的なブームが終焉したに過ぎないと結論づけている。つまり、真の家庭用ゲーム機市場の成立を観測するには、ファミコンの登場を待たなければいけないということだ。

 

アタリショックの影響で、大量のソフトがアメリカ南部の砂漠に埋められたとの逸話もあった。 都市伝説とされてきたが発掘作業で事実であったことが明らかになる。 (画像出典: Wikipedia英語版)
アタリショックの影響で、大量のソフトがアメリカ南部の砂漠に埋められたとの逸話もあった。都市伝説とされてきたが発掘作業で事実であったことが明らかになる。(画像出典: Wikipedia英語版

 

日本には直接の影響が少なかったアタリショックだが、ファミリーコンピュータの開発にはかなりの影響をあたえている。というのも任天堂は当時の海外産家庭用ゲーム機とホビーパソコンを研究することで、本機の基本コンセプトをつくっていったのである。ゲームに特化したハードでありながら「ファミリーコンピュータ」という商品名を採用する。プログラミング用周辺機器であるファミリーベーシックを発売する。現在から見れば、矛盾した施策のようである。だが当時の任天堂はアタリショックへの懸念とホビーパソコンブームにうまく乗るために、ファミコンがゲーム機ではなくコンピュータであることを強調したのである。本来的にはゲーム機であるものをなにか別ものとしてアピールする戦略は、のちの任天堂の在り方にも通じるところがあり興味深い。

さて当時のファミコンのライバルは、セガのハードであった。ホビーパソコンSC-3000の後継機であるセガマークIIIは、ゲームに特化することでファミコンを上回る性能を持っていた。さらに『ファンタジーゾーン』、『スペースハリアー』、『アフターバーナー』といったセガが得意なアーケードゲームを移植することで消費者にアピールすることができた。しかしながら、ハドソン、コナミ、ナムコといった有力なサードパーティをいち早く取り込んだファミコン側がソフトラインナップの点で優位に立ち、セガはファミコンの牙城を崩すことはできなかった。ただしセガマークIIIはMaster Systemとして国外で普及、海外市場だけで900万台の販売台数を記録している。

 


ポストファミコン争奪戦

 

ファミコンが覇権をにぎった80年代後半、各社の目標はアーケードゲームを忠実に移植することに移っていった。最初に動いたのはファミコンの開発に参加し、任天堂と蜜月関係にあったハドソンだ。ハドソンはアーケードゲームの進化に対してファミコンが旧式化してきたことを危惧して、独自規格のゲーム機の開発を模索しはじめた。結果的にNECホームエレクトロニクスとPCエンジンの共同開発へこぎつけた。

当時はナムコやコナミといった他のメーカーも独自ハードを模索していたという。しかしながら、家庭用ゲーム機のビジネスはたんなる製造業ではなく、ユーザーサポート、流通、デベロッパーの取り込みといったノウハウも必要である。そのため、ほとんどのメーカーは試作機やソフト開発キットを開発するも、途中で断念することになった。そのようななか、ハドソンはNECという強力な味方をつけることで1987年にPCエンジン発売へいたった。

PCエンジンに続いたのはセガであった。メガドライブは1988年にセガマークIIIの後継機として発売された。16ビットCPUであるMC68000を搭載しているのが特徴であり、当時としてはかなり高価な部品であった。100万個単位でチップを注文されたMotorolaは軍事利用を警戒したというエピソードが残っている。またPCに利用されていたチップであったため、テクノソフトの『サンダーフォースII MD』などPCゲームの移植も比較的容易であった。

任天堂のスーパーファミコンはこれらのライバル機からかなり遅れた1990年に発売された。発売が遅れたおもな理由は、ファミコンとの互換性を検討していたためとされている。またスーパーファミコンはライバル機と比べるとCPUの性能は高くなく、そのぶんグラフィックスにリソースを集中していた。この設計思想は当時人気のあったRPGを重視したためではないかと本書は推測している。この戦略は『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』シリーズがヒットすることで、結果的に功を奏する。だが、爽快感を求めるアクションゲームやシューティングゲームはPCエンジンやメガドライブに奪われたため、ファミコン時代ほどにはシェアを独占することができなかったとも本章は分析している。

 

メガドライブの航空機貸出用モデルであるメガジェット。北米では本機をもとに携帯ゲーム機Nomadが発売されている。 (画像出典: Wikipedia)
メガドライブの航空機貸出用モデルであるメガジェット。北米では本機をもとに携帯ゲーム機Nomadが発売されている。(画像出典: Wikipedia)

 


光記録媒体の新技術

 

第4章は他の章とは異なり、ゲーム機そのものよりも記録メディアの移行について語られている。通常の家庭用ゲーム機の歴史では埋もれがちなCD-ROM2やメガCDに多くの紙面が割かれており、個人的にはとくに面白かった。

家庭用ゲーム機において初めて光ディスクを採用したのは、1988年に発売されたPCエンジンの周辺機器CD-ROM2システムである。CD-ROM自体はすでにPCやワープロなどで利用されていたが、当時の光学ドライブの価格は40万円以上という大変高価なものであった。また電話帳や住所録といった用途にしか使われていなかったため、CD-ROM2におけるゲームのメディアとしての利用は画期的であったのだ。

しかしながら、CD-ROM2に対する消費者の反応はいまいちであった。それもそのはず、ローンチタイトルは『ストリートファイター』の家庭用版である『ファイティングストリート』と小川範子のボイスが楽しめるデートシム『No・Ri・Ko』の2本だけであった。だが少しずつ対応ソフトは増え、アニメ調デモとCD音源によるBGMとボイスにおいてCD-ROMの真価が発揮されることになった。本章では『イースI・II』と『天外魔境II 卍MARU』が高く評価されている。

PCエンジンに続き、1991年にセガはメガドライブ用のメガCDを発売。メガCDは本体にもCPUやメモリが搭載された高性能なマシンであったが、対応ソフトは少なかった。それでも日本テレネット、ウルフチーム、ゲームアーツといったサードパーティがメガCDを牽引、特にゲームアーツは高い技術力を示す『シルフィード』や実験的なアドベンチャー『ゆみみみっくす』といった作品をリリースしている。

またCD-ROMの利用はゲームに限った話ではなかった。本書ではカラオケと体験版の配布を例としてあげている。CD-ROMはCD音源を再生することが可能であるため、家庭でカラオケとして利用することができる。CD音源を再生しながら静止画を流す「CD Graphics」という規格もあったそうだ。実際にCD-ROM2にもメガCDにもカラオケができる周辺機器がリリースされている。体験版はいまでこそ一般的だが、高価なROMカートリッジ時代ではできなかったことだ。ゲーム雑誌の付録やイベントの特典として、CD-ROMに収録された体験版が配布されていた。

 

PCエンジンはCD-ROM2に限らず、ラインナップが多いハードであった。
PCエンジンはCD-ROM2に限らず、ラインナップが多いハードであった。

 

このように各社が周辺機器によってCD-ROMを採用していった80年末から90年代前半だが、ここでゲーム史を大きく揺るがす事件が起こる。ソニーの家庭用ゲーム機事業参入である。もともと任天堂のサウンドチップを開発していたソニーだが、スーパーファミコン用のCD-ROMドライブアタプタを計画していた。しかし破談の結果、独自の家庭用ゲーム機開発を模索することになる。これらのプレイステーション誕生秘話は何度も語られてきたので、ここでは繰り返さない。いずれにせよ、覇権をにぎるプレイステーションがCD-ROMドライブの開発から始まったことは強調すべきだろう。時代の流れはROMカートリッジからCD-ROMへと大きく変化していたのである。

 


セガの撤退とゲーム離れの兆し

 

90年代中頃からはCD-ROMへの移行だけではなく、ビデオゲームの表現も2Dから3Dへと大きくシフトしていった。1994年は日本ゲーム史の節目の年ともいわれる。プレイステーション、セガサターン、3DO REAL、PC-FX、ネオジオCDなど多くのハードが発売された。現在では当たり前になった「次世代ゲーム機戦争」といった言葉もこの時代から使われるようになった。任天堂はこの戦いに遅れること2年、96年にNINTENDO64を発売する。しかしながら、発売の遅れとともに有力なサードパーティに離脱され、過去に築いたシェアを切り崩されることになった。結果、このシェア争いはプレイステーションが制することになった。

つぎの節目は2000年前後である。最初に動いたのはセガが1998年に発売したのドリームキャスト。シンプルで高性能な設計、ヤマハと共同開発した独自メディアGD-ROM、携帯ゲーム機としても利用できる記憶メディアのビジュアルメモリといった様々な特徴を備えていた。またモデムを内蔵したハードでもあり、セガはプロバイダ事業も開始することになった。結果として『ファンタシースターオンライン』といった国産初のオンラインゲームといった先進的な試みが実現した。さらにドリームキャストに関してはその広告戦略も有名だろう。秋元康を社外取締役として招き、湯川専務を起用した自虐的なCMを放映。130億円という大規模な広告費が投じられた。

しかしながら、NEC製のグラフィックスチップの生産が遅れ、開発機材も本体の生産も遅れるという失態を犯すことになった。『バーチャファイター3tb』、『ソニックアドベンチャー』、『ファンタシースターオンライン』といった良質なソフトに恵まれるにもかかわらず、セガは家庭用ゲーム機事業から撤退することになる。当時のセガ社長大川功はXboxにドリームキャストの互換性を実装することを直談判したが、これも破断となった。

2000年にはプレイステーション2が発売される。初代のコンセプトを継承してグラフィックスとサウンドの向上を目指している。デザインは現在のプレイステーションにも採用されている縦横どちらでも置けるスタイルとなり、メディアとしてDVDを採用した。しかし、なによりもの強みは上位互換性であり、プレイステーションのソフトラインナップをアピールできた。さらに初年度の発売タイトルは120本にものぼり、物量で他を圧倒した。

任天堂からは2001年に光ディスクを採用したゲームキューブがリリースされる。この光ディスクは松下電器との共同開発の独自メディアだが、とくに名前が存在しない。NINTENDO64と変わってスペックよりも開発のしやすさが重視され、『バイオハザード』、『メタルギアソリッド ザ・ツインスネークス』といったサードパーティ製の大作リメイクにも恵まれた。さらに『ピクミン』、『ゼルダの伝説 風のタクト』といった自社の名作がゲームキューブを牽引した。

さらにMicrosoftのXboxは日本では2002年に発売された。Xboxの構成自体はPC/AT互換機を流用した内容であった。ビル・ゲイツが『笑っていいとも』に出演するなど大規模なプロモーションがなされたが、ユーザーサポートや日本人向けソフトラインナップが不足したことでふるわなかった。

この世代のシェア争いは大方の予想通り、プレイステーション2が圧勝することになった。プレイステーション2は歴代ハードの中でもっとも出荷台数が多いハードとなったが、じつはソフト累計販売本数自体は初代プレイステーションより減少しているそうだ。ゲーム機は買ったもののソフトは買わないというユーザー層が生まれつつあるとして、本書ではこれを現在のゲーム離れの始まりではないかと指摘している。

しかしながら、昔に比べてゲームタイトルが重厚長大なものになったため、ソフトの購入数が減ったという理由も考えられるだろう。いずれにせよ、現代のビデオゲームはテレビ、映画、インターネットといった様々な娯楽と時間を奪い合うことになっているのはたしかである。そしてこの世代の多くのハードがDVDプレイヤーやインターネット接続といったゲーム以外の機能を持っていたことは事実である。

 

キーボードとブラウザソフトがセットになったハローキティのドリームキャストセット。 Eメールやインターネットブラウジングによって女性にもアピールする狙いがあった。 (画像出典: Wikipedia)
キーボードとブラウザソフトがセットになったハローキティのドリームキャストセット。Eメールやインターネットブラウジングによって女性にもアピールする狙いがあった。(画像出典: Wikipedia

 


ゲームプラットフォームの多様化

 

2000年代後半にさしかかると前世代機にあたるXbox 360、プレイステーション3、Wiiの争いがはじまる。本書によればキーワードはインターネットの利用である。確かにそれぞれのハードはインターネットを利用したシステムアップデート、スコアランキング、ダウンロード販売といった機能を取り入れるようになった。もちろんハードごとにサービス内容や品質は様々であったわけだが、本書では詳しく触れられていない。

Xbox 360は2005年12月10日に発売された。メディアとしてDVDを採用するも、プレイステーション3のブルーレイ対応に対抗して、別売りのプレイヤーでHD DVD対応することになった。フルハイビジョン対応、インターネットサービスであるXbox Live、新しいコントローラーであるKinectなどが特徴となる。一方、プレイステーション3は2006年11月11日に発売。ブルーレイ、フルハイビジョン対応、 HDMI接続、リモートプレイなどが特徴であった。CPUはソニー、IBM、東芝が共同開発したCELLを搭載している。

Xbox 360とプレイステーション3が美麗なグラフィックスと高音質なサウンドをアピールする一方、2006年12月2日に発売されたWiiは独特なコントローラーによって家族みんなで楽しめることを強調した。またインターネットサービスであるWiiチャンネルもテレビに似せたUIを採用することで、お茶の間に溶け込むことを狙っている。ハード性能自体はゲームキューブとほぼ同等であり、より小型で省電力化された。小型化はかなり力を入れており、当初はDVDトールケース2枚分の体積を目指していたそうだ。

この世代のシェア争いは結果として国内ではWiiが55%と勝利したが、それぞれに課題を残すことになった。Xbox360は国内のサードパーティをうまく取り入れることができず、 海外ソフト中心のゲーマー向けハードとなった。プレイステーション3は独自の設計を採用したため開発が難しく、ソフトラインナップを集めるのに時間がかかった。Wiiは開発しやすさゆえに初期には多くのサードパーティが集まったが、後半はスペック不足から失速していくことになった。本書ではそれぞれのハードが痛み分けをする結果になったと結論づけている。

最終章は現在進行中のWii U、プレイステーション4、Xbox Oneのシェア争いが描かれる。それぞれの仕様や設計思想は、ここでは割愛させていただく。出荷台数は本書ではWii Uが586万台、プレイステーション4が600万台、Xbox One300万台となっているが、本書の発売時にXbox Oneが発売されていない地域があるため、あくまでも参考程度にしかならないであろう。さらにこの時代のシェア争いは、同じ家庭用ゲーム機といってもそれぞれターゲットが異なっているため、単純な比較は難しいように思える。たとえば任天堂はWii Uをこれまででいうところの据え置き機とみなしていない。またスマートフォンやPCといった他のデバイスもゲームプラットフォームとして成長しているため、今後は何をもって「家庭用ゲーム機」なのかが問われる時代になるだろう。

 

いよいよ国内で発売されるXbox Oneだが、家電売場の様子は以前に比べるとかなり落ち着いている。
いよいよ国内で発売されるXbox Oneだが、家電売場の様子は以前に比べるとかなり落ち着いている。

 


ノスタルジーではない冷静なゲーム語り

 

以上が本書で描かれる家庭用ゲーム機シェア争いの概要だ。他にもゲームボーイからニンテンドー3DSに至る携帯ゲーム機戦争についても触れられているが、割愛させていただく。ただ携帯ゲーム機におけるシェア争いでは、単純なスペックやソフトラインナップだけではなく、携帯性、電池の持ちといった利便性が大きく影響する点は興味深かった。

本書の美点のひとつは、その記述が淡々とした冷静なものであることだ。逆にいえば読み物としての魅力はやや少なく、コンパクトに情報がまとまっているだけにも思われる。しかしながら、ともすれば妙な派閥争いや懐古的な思い出語りが入り交ざる家庭用ゲーム機においては、この記述のドライさは評価すべきものであろう。

情報量や内容自体もすでによく知られたものばかりであるが、既存の事実をまとめた書物が無駄かといえば、そうでもないだろう。一冊の本にまとまっていることで参考資料としての利便性はあり、通読することでこれまで気付かなかったことに気づくこともある。ただ資料という側面では、本書には出典情報や索引が不十分だと評さざるをえない。また発売日の表記が北米のものと国内のものが混じっているなど、記述の正確性に関して若干の不安を覚える部分はあった。