「開発者のセーブデータ」 第ニ回 “コンピュータ上でできる遊びはなんでもあり” スパイク・チュンソフト 中村光一 氏 インタビュー

スパイク・チュンソフト代表取締役会長である中村光一氏と、聞き手としてアクティブゲーミングメディアの中西一彦氏によるインタビューは全三回にわたり掲載予定。第二回となる今回は、チュンソフトを立ち上げてから『ドラゴンクエスト』や『弟切草』といった有名タイトルをどのように手掛けたかのか、当時のセーブデータを読み込んでいただく。

1983年、任天堂、「ファミリーコンピュータ」を発売。それまでアーケードゲームに代表されていた日本のゲームシーンは、“家庭内でゲームハードを買ってソフトを遊ぶ”という家庭用ゲームへと徐々に切り替わっていった。家庭用ゲーム黎明期に開発者として生まれ業界に関わってきた“当時の若人たち”は、30年が経ち激動のゲーム史をどう振り返るのだろうか。

「開発者のセーブデータ」は、家庭用ゲームの業界が勃興し始めた約30年前に開発者として生まれた“当時の若者たち”をインタビューする連載企画。当時20代だった若者たちが、自身のルーツやこの30年間の開発秘話、そして現代の若者たちへ向けたメッセージを語る。

スパイク・チュンソフト代表取締役会長である中村光一氏と、聞き手としてアクティブゲーミングメディアの中西一彦氏によるインタビューは全三回にわたり掲載予定。第二回となる今回は、チュンソフトを立ち上げてから『ドラゴンクエスト』や『弟切草』といった有名タイトルをどのように手掛けたかのか、当時のセーブデータを読み込んでいただく。

 

中西氏:
会社を設立されて『ドアドア』を移植された後、『ドラゴンクエスト』の開発に取り掛かることになりましたよね。ぜひ興味ある読者も多いと思うので、当時のことをいろいろと聞かせてください。

中村氏:
「エニックス」のコンテストで僕が準優勝になった時に、入賞者のなかに堀井雄二さんがいらっしゃたんだよね。堀井さんは『ラブマッチテニス』というテニスのアクションゲームを応募して入賞されてたんだけども、それと同時に週刊少年ジャンプでゲームコンテストの紹介みたいなのもやってた。堀井さんは記者としてコンテストの取材もされていて、その表彰式の時に始めて会ったというのが縁で。

それからしばらくして僕は大学に入って会社を作って、『ドアドア』を移植して、次になに作ろうかなと。アクションゲームもいいけども、当時パソコンの方でアドベンチャーゲームが流行ってたんで、そういうのがいいんじゃないかっていう話をしてた。当時は作ったら売れるんじゃないかとは思ってたけども、アドベンチャーゲームは絵がいっぱい必要で、ファミコンのグラフィックの容量的に豊富な絵は出せない。だから難しいですよねという話をプロデューサーにしたら、『ポートピア連続殺人事件』だったらできるかもと。『ポートピア連続殺人事件』は取調室でキャラクターの顔は、豊富に変わっていくんだけども、それ以外のシーンでは絵としては20枚も無いくらいのものなので、上手に圧縮して入れると可能性があるんじゃないかとなった。

それで絵はなんとか入りそうだっだんだけど、次の問題は入力方法。当時、パソコンのアドベンチャーのコマンドの入力っていうのは、動作をそのまんまキーボードから入力するのが主流だったんだよね。たとえば「右に/行く」とか、「テーブルを/倒す」とか、そういう行動をぜんぶ自分で入力する。それをキーボード入力じゃなくてコマンド入力にしようと。できる動作をぜんぶコマンドにして、「何を/どうする」の「何を」の部分も選択肢の中で選ぶ形だったら、いわゆるコントローラーの上下左右とAB決定キャンセルでできるよねっていう。すでに堀井さんがパソコンでそのスタイルを『オホーツクに消ゆ』にてやっていて、成功していた。そういう風に『ポートピア連続殺人事件』を作ったのが堀井さんとの最初の仕事。

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中村氏:
『ポートピア連続殺人事件』のあと、当時「Apple II」とかでロールプレイングゲームが流行っていて、そのなかでも『ウィザードリィ』と『ウルティマ』っていう二大RPGがあった。僕はどっちかっていうと『ウィザードリィ』派、チュンソフトはみんな『ウィザードリィ』派。逆に堀井さんとかジャンプの人は『ウルティマ』やってる人が多くて、『ポートピア連続殺人事件』の打ち合わせの時に、どっちが面白いみたいな会話をよくしていた。話が終わったら「次はロープレ作りたいよね」みたいなね。

『ドラゴンクエスト』を作る時に一番何が問題かっていうとセーブ機能。『ポートピア連続殺人事件』も、あの時まったくセーブとか機能として無かったんだよね。だからアドベンチャーなんだけども、電源入れたら最後までやり切らないといけない。電源切ったら最初っからやり直し、今じゃ考えられない。そして流石にロープレではそういうわけにはいかないだろうと。なんとか中断しても途中から始められる方法を考えないと、ロープレは成立しないよねっていう思いがあって、それをパスワード形式でやればいいんじゃないかっていうのを、堀井さんが提案してくれた。じゃあそのパスワードをなんとか短い形でまとめられるようにしようというので、実現したのがあの「ふっかつの呪文」。あれが数字だけだったら40文字とか50文字ぐらいになるんだけども、それをひらがなにすることで短縮できて。それでロープレが、当時のROMカートリッジでもできるようになったという。

やっぱり新しいものを作る時に、そういう新しい技術的な進歩があるのは面白いよね。それはソフトウェア技術だけでなくて、ファミコンのカートリッジにバッテリーのバックアップが付いてデータそのまんま残していけるようになったりとか、スーパーファミコンになった時にはFM音源だけじゃなくて音をサンプリングしてそれが再生できるようになったりとか。拡大・回転・縮小ももちろんそうなんだけど、そういった従来の表現方法や入力方法が進化していくところで新しい面白さが作られるなあっていうのは、ずっとこの業界に携わって非常に実感してきた。新しい何かが出た時には、必ずなんか大ヒットが生まれていて、そのヒットに上手に乗っかれると会社が大きくなるなあという。それがこの業界かなあっていう感じかなあと。

中西氏:
『ドラゴンクエスト』は今年で30周年じゃないですか。私もスペクタクルショーやミュージアムに行かせてもらって、楽しませてもらいました。想像した以上に若いお客さんも多く、そして30年を経ってもみなさんに楽しんでいただいている状況って、どういう印象ですか?

中村氏:
内容的に普遍的なことをテーマにしていて、フィールドタイプのロールプレイングゲームの基本となるゲームだと思う。一番最初にやるにはもってこいのゲームだと思うね。今、初代『ドラゴンクエスト』って何でやるんだろうね、携帯電話?

中西氏:
スマートフォンでも配信していますね。スマートフォンはローカライズされて、海外の方にも遊んでいただいている様ですよ。

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中西氏:
「ドラゴンクエスト」シリーズの開発後、チュンソフトはデベロッパーからパブリッシャーを目指して『弟切草』を製作しました。もちろん、私自身も経緯はよく知ってはいますが、新しいタイプのゲームを作り続けたなかで、サウンドノベルって当時のみなさんびっくりされましたよね。その辺りのお話もお聞かせください。

中村氏
:
『ドラゴンクエスト』をバッテリーバックアップの技術を使って作って、一番最初にやりたかったパーティープレイとかキャラクターメイクみたいな遊びもできたし、自分としてはそろそろ次の何か新しいものを作りたいなあとなってた。『ドラゴンクエスト』は何年ぐらいやったかなあ、10年まではやってないけど、でも7、8年ぐらいずっとやってたかな。スーパーファミコンも出たし、自分たちでオリジナルを作って自分たちの売り方で売っていきたいという、そういう意思の元にね。会社を始めた時も、もともと自分たちで作っていくっていうことしか考えてなかったので、素直にそれに従ったっていう感じで。

なんでサウンドノベルなのかっていうと、当時はまだ『ドラゴンクエストV』の開発をしていて、ほとんど社内のスタッフがみんな『V』の方に手一杯だった。なかなか新しい企画を作ろうにもプログラマもグラフィックもスタッフが居ない。その時に少ないスタッフでできそうなのっていうことで、文字だけでやるアドベンチャーゲーム。テキストアドベンチャーはすでにパソコンの方では存在していて、結構面白かったので、それを作ろうと。もう1つの理由としては、スーパーファミコンのサンプリング音を再生できるという点。ガラスの音とか悲鳴とかで脅かすっていうか、そういうのでボタンを押すのがちょっと怖いゲーム、夜中1人でやってると怖くて進めないような、そういう体験をさせたいという狙いで『弟切草』を作りました。

あともう1つあったのは、『ドラゴンクエスト』ってとっても流行ってたんだけども、それでも知り合いにどんなにオススメしてもやっぱり難しいと言われた。コントローラーで上下左右になかなか動かすことすらできないという人もいて、ひらがなばっかりで読みにくいとか、さんざん言われてやってくれない人もいて。そういう人たちに何かコントローラーを握るきっかけになるようなものを作りたかったていう気持ちがあった。難しいルールを無くして、ただひたすらお話を読んで、重要局面で選択肢でどうするかを選ぶことによって話が変わっていく、エンディングが変わっていく。そんなスタイルを取ることで、そういう人たちがゲームを始めるきっかけになるというのが、目標としてありました。

中西氏:
アドベンチャーゲーム自体は前からあったんですけど、スーパーファミコンの時は音源がファミコンより良くなったので、視覚より聴覚の方が疑似体験出来ると言うか、より恐怖感を味わってもらう事が出来ました。それから、最初『弟切草』は本当に文字だけのバージョンを出して、ちょっと、いやかなり苦労しましたよね。

中村氏:
発表会やった時だよね。問屋の方から「これじゃ売れないよ」って(笑)。「やりたいことはわかるけど、売りようがないよ」とか言われて、「あーやっぱそうですかねえ」みたいな。それから色々検討して挿絵的にバックにいろんな絵を入れた。最初は本当にわら半紙的な紙のテクスチャの上に文字だけで作ってた。当時のゲーム関係の雑誌とかでは、まともに評価にしてもらえないっていうのかな。これはゲームではないみたいな感じで(笑)。評価のしようがないみたいな感じで、点数を付けてもらえなかったみたいでした。でも最初は10万本ぐらいだったっけ。

中西氏:
もうちょっと。12万本ぐらい。

中村氏
:
12万本ぐらいからちょっとずつ出荷していってたから、一時は幻のソフトと呼ばれてた。どこにいっても無いみたいな。

中西氏:
当時はカセット作るのが2か月ぐらいかかってたんで、市場で無くなったらそこから2ヶ月後にしか出荷できなかった。そのあいだは品薄になって買えない。当時はまだ中古屋さんとかもそうポピュラーじゃ無かった。

中村氏:
「ピンクのしおり」っていう、全部エンディングを見たら別のストーリーが出るような仕掛けも作ってたんで、終わったと思って中古屋に売った人がまた買い戻しに(笑)。俺また買い直したよみたいな人もいたりとかして。でも最終的に『弟切草』は30万本ぐらいいって、それで第二作で『かまいたちの夜』が大ブレイクして、誰もが知るタイトルになった。

中西氏:
そうですねえ。『かまいたちの夜』の時には、本当にゲームとして評価をして頂けるようになりました。

――当初期待されていなかった『弟切草』というテキストアドベンチャーが、さらに『かまいたちの夜』へ続いていくわけですね。

中村氏:
『弟切草』のアンケートハガキに次はミステリーをやってほしいっていう意見がすごく多くて、本当に素直にそれに従ったという形です。当時、中西さんの部署でミステリー作家の先生たちに一斉に手紙を書いて、こういうゲームを作ってる会社なんですけど「興味ありませんか?」って聞いたところ、手を挙げてくれたのが我孫子 武丸さんだったという。

中西氏:
書いた手紙へすぐに返事をいただいて、しかもすでに『弟切草』をやっていただいていました。すぐに京都に行ってお会いして、東京に戻り中村さんに報告して、麻野一哉さんと3人ですぐに京都に行って打ち合わせしたね。

中村氏
:
僕らよりもゲーム詳しかったんで(笑)。ほとんどゲームは遊んでいて。

中西氏:
あの時お会いしたなかで、ほかに覚えてるのは鈴木光司さん。自宅で専業主夫と学習塾をされながら執筆活動をされていた時にお会いして、シナリオを執筆してくださいとお願いをしたことがあります。『弟切草』とスーパーファミコンを置いて来たんですが、ご縁がありませんでした。すでに執筆されていた「リング」が映画化されたり「らせん」が出た時に、「あーしまった」と思いましたね。もう少しプッシュすればよかったと。この『かまいたちの夜』を発売した頃が、中村さんがちょうど30歳の時ですかね。

developers-save-002-kouichi-nakamura-003――学生から30歳までですでに多数の有名タイトルに携わっていて、激動のゲーム開発人生という感もあります。

中村氏:
『かまいたちの夜』の前に『トルネコの大冒険』とかもあったしね。あれも『弟切草』を作って、次に何やろうかってなった時に、スタッフの1人が『ローグ』っていうゲームが好きですごくやってて、次これやろうよってなった。最初ゲームを渡された時はぜんぜんわかんなくって、「@」マークが自分で「A」とか「B」とかっていうモンスターがいて、アイテムもなんかこう未識別状態で、なんのアイテムかわかんないんだよね。こんなもの拾っても使い道もないしどうすんだろうって。

でもチュンソフトのメンバーはゲームにうるさい奴が多くて、なかでもそれを持って来た人はすごいうるさかったんだよね。彼がこれが面白いっていうんだから絶対そのはずだって思って、もうゴールデンウィークのあいだ僕は遊びに行かずにずっとそれをやってて、ある瞬間「そういうことか」ってなった。未識別のまったく同じアイテムを2個持ってて、1個をわけわかんないまま使ったら、残りの1個は識別状態になって。同じアイテムが2個あった場合、1個使ったら1個使えるものが残っていくんだなあって。あと識別したアイテムが増えていくと、残っている未識別アイテムの正体の可能性がだんだん狭まってくることとか。あ、こうやって自分のスキルを上げていったり、予想するっていうのを楽しむゲームなんだなってわかってから、急激に面白くなった。

でもこの最初のハードルがあまりにも高くて、この面白さをどうやってファミコンとかのお客さんに理解してもらうのかっていうのが、すごいテーマになって。ずっと悩んでたんだけども、一番いいのは魔法とかアイテムとかモンスターとかの特性がわかっていれば、識別して名前がわかった瞬間に効果もわかる。それならすでに人気があった『ドラゴンクエスト』が一番いいなあと思い、それで堀井さんに相談しに行ったら、堀井さんも『ローグ』のことは知っていて、許可をもらえた。それで『トルネコの大冒険』ができた。その時に、ダンジョンに潜ってアイテムを拾う主人公がいわゆる勇者じゃやっぱり変だよねとなって、キャラクターとして何が一番いいかなあと考えた時に、ちょうど武器商人トルネコが一番ピッタリだよねっていう。それでトルネコと。

中西氏:
その後も『不思議のダンジョン』はシリーズ今でも作られますね。20年くらい。

――『不思議のダンジョン』だけでは無く、どの作品も現在まで続いていますよね。『ドラゴンクエスト』も『かまいたちの夜』もそうですし。

中村氏:
今こそビデオゲームってジャンルっていう考え方で分類されているけど、やっぱり初期の頃っていうのは、ジャンルそのものが新しいゲームだったので。おもにはアクションで、おもにはシューティングだったけども、やっぱり『スペースインベーダー』から間もなくして『パックマン』とかああいうタイプのものが出たりとか、それこそ『ドンキーコング』とか。そのなかで、パソコンのゲームなんかだとアドベンチャー、アドベンチャーもテキストだけでやるアドベンチャーが最初にあったと思ったら、すぐにミステリーハウスっていって家の中を探検するようなゲームが出てきて。ラインで描かれている家のなかをウロウロして冒険するようなゲームね。そういうのができたかなあと思ったら、間もなくウォーシミュレーションゲームみたいなのがアスキーから発売されたりとか。あ、こういうのもあるんだと思ったら、今度はマネージメントゲーム。会社の運営をシミュレーションするようなゲームが出たりとか。

だからもう、本当にぜんぶバラバラなんだよね。コンピュータ上でできる遊びっていうのは、何でもありだという風に思っていて、自分もそういう発想で考えるのが普通だと思っていた。そういった意味では本当に目新しいもの、新しい体験をしてもらいたいなという気持ち、新しい面白さとか驚きみたいなのを感じてもらいたいなっていう気持ちは常にある。なので、その根源になるものを最初に考えて、ストーリー変えたりとかモンスターや世界観変えたりとかすれば、いろんなものが次々と作れるのかなあという風に思います。たとえばサウンドノベルとか、すごいあるもんね。自分のところだけじゃなくてね。

――フリーから商用まで、機種に関係なくたくさんありますね。

中西氏:
スマートフォンとかも結構見るとありますよ。

中村氏:
作りやすいっちゃ作りやすいからね(笑)。

中西氏:
いろんなジャンルのゲームを、わかりやすく間口を広げ敷居を下げて提供されてきたいうことがよくわかります。

 

第三回では、中村氏にここ30年間の業界の流れ、そしてこれからゲーム業界がどうなっていくのかをうかがう。

[聞き手 Kazuhiko Nakanishi]
[編集校正・取材アシスタント Shuji Ishimoto]
[写真撮影 Mon Gonzalez]

Shuji Ishimoto
Shuji Ishimoto

初代PlayStationやドリームキャスト時代の野心的な作品、2000年代後半の国内フリーゲーム文化に精神を支配されている巨漢ゲーマー。最近はインディーゲームのカタログを眺めたり遊んだりしながら1人ニヤニヤ。ホラージャンルやグロテスクかつ奇妙な表現の作品も好きだが、ノミの心臓なので現実世界の心霊現象には弱い。とにかく心がトキメイたものを追っていくスタイル。

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