自分のゲームを笑われたって構わない。『Everything』『Mountain』にこめられたアートとは何か?鬼才の開発者David O’Reilly氏ロングインタビュー

 

弊社アクティブゲーミングメディアが展開するインディーパブリッシャーPLAYISMは今年3月、『Everything』の日本語版をリリースした。対応プラットフォームはPS4/Nintendo Switch。PLAYISMは販売には関わっていないが、PC(Steam/Epic Gamesストア)向けにもリリースされている。

『Everything』と『Mountain』。両作は同じクリエイターが手がけた、ユニークな作品だ。すべてのものになれるゲームと、山になれるゲーム。一見シュールなテーマのゲームであるが、マルチメディアアーティストDavid O’Reilly氏の強き想いが込められている。そんなDavid氏に、同氏と親交のあるBaiyon氏との対談を介して、改めて『Everything』について語ってもらった。聞き手として、同作の英日ローカライズを手がけたPLAYISMの山中琢氏が参加している。






David O’Reilly
アイルランド出身でロサンゼルス在住のマルチメディアクリエイター。「Please Say Something」や「The External World」などの実験的な3Dアニメ映画を手がけたほか、「アドベンチャー・タイム ~ア グリッチ イズ ア グリッチ~」では監督を務める。ゲームとしては山を眺めるという意欲作『Mountain』をリリース。“すべてのものになれる”という作品『Everything』はPLAYISMより日本語版が販売中だ。

最近の活動としては、COVID-19で不安を感じている世界中の人々からメッセージを募集し、独自開発したビジュアルエンジンに載せた映像作品を公開している。

また、今年6月には『Everything』の3D素材を一般公開している。
http://www.davidoreilly.com/library




Baiyon
京都在住のマルチメディアアーティスト。Q-Gamesクリエイティブディレクター。サウンドプロデュースやグラフィックデザイン、アートディレクション、ビデオゲームのディレクションなど、多岐にわたるものづくりに関わる。Baiyon氏が深く携わった『PixelJunk Eden』は世界的に高い評価を獲得。そのほか、さまざまな作品に楽曲を提供したり、サウンドをリミックスしたりと、幅広い活躍を続けている。現在は、新作『PixelJunk Eden 2』を鋭意制作中。

オフィシャルウェブサイト
https://baiyon.com

PixelJunk Eden 2
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20200318-117181/

先日行なわれたストリーミングショー「Day of the Devs – Summer Game Fest Edition」で行なわれたホームスタジオでのスペシャルライブセット。イベント主催はEverythingのパブリッシャーでもあるDouble Fine Productions。




聞き手山中琢(本文中記名なし)
PLAYISMのチーフマネージャーを務める。カナダに8年間住んでいた英語力を活かし、PLAYISMでは海外を含めたリリースにまつわるピンからキリまで携わる。『Everything』では全編における英日翻訳を担当。






David:
山中さん、この機会をセットアップしてくれてありがとう。Baiyonは『Everything』について話すならうってつけだよ。そして一年以上、このクレイジーなプロジェクトにずっと付き合ってくれて本当に感謝してる。

───こちらこそありがとう。日本語版の発売には、『Everything』のファン、David O’Reillyファンもみんな喜んでくれていることを期待しています。

Baiyon:
Davidの友人として、『Everything』やアートについて、また『Everything』のローカライズも少し監修で関わらせて頂いたことなどを話せればと思っています。

『Everything』とは何なのか?

───ではまずこの質問から始めます。「『Everything』とは何ぞや?」。基本すぎる質問かもしれませんが、同時にすごく深い質問だとも思っています。以前東京ゲームショウで『Everything』を展示した際に、来場者にこのゲームはどんなゲームなのかと聞かれたとき、毎回違う答えを返す羽目になりました(笑)

David:
『Everything』が根本的に他のゲームと異なるところは……一言ではいえないので、例を使おう。普通のゲームだったら、ゲームの目的から始まるよね。そして主人公がこの男の子だとか女の子だとか動物だとか。で、君はここに行ってこれをしなきゃいけないという目的がある。でも『Everything』では「あなた」が完全に動的なもので、しょっちゅう変わる。しょっちゅう変わるからこそ、重要なことはあなたが何であるかということではなく、「何をするか」によるんだ。

とは言っても、やることも基本的には同じなので「何を」じゃなくて、「する」がメインだね。根本的に固定観念やキャラクターなんかどうでもよくて、自然というものは特定の個人や出来事に重要性を置いてなくて、モノが動いたり、活動したりといったダイナミクス、関係性を表現する動詞から成り立つのと同じものだと考えてほしい。映画というのは一般的に個人とイベントの集まりからしか成り立たないのだけれど、ゲームとなると、プロセスや関係性だけで表現することができると思うんだ。


だから、このゲームで強調しているのは「何が起きているか」であって、「自分が何であるか」ではない。ここがプロジェクトの出発点だったね。あるキャラクターとなって動き回るということ自体がゲーム。プレイヤーそのものが、「あるときある瞬間」に存在しているゲームの一部分であるだけなんだというのを知らしめる。

だから、プレイヤーが見ている景色は、あなたがなり得た可能性の一つなんだよ。それは、現実で起きていることをより大きな目線から見てみた場合に近いんじゃないか。そんな考えがはじめにあったんだ。

───つまりタイトルは『Everything』だけど、Things、つまりモノひとつひとつはどうでもよくて、ゲーム全体としてEverything、すべてのモノを表現している、と。

David:
そう、『Everything』へのアプローチ方法を示しているだけ。たくさんのモノがあるけど、そのモノに関するゲームではないんだ。むしろ、モノそれぞれの違いに重要性はないというのが伝えたかったことなんだよ。たとえば、すべてのモノはだいたい同じくらいのディテールを持つようにしている。だから、どのモノも他のモノと同じように見えるし、そこそこ違うようにも見えるはず。ポリゴンサイズも大体500から1000にしてる。その理由は、プレイヤーが特定のモノが他と違うと思ってほしくなかったからなんだ。

逆に言うと、このゲームが持っているリスクは、おそらくだけど、ゲーム自体は「重要なのはこれです」とは言ってくれないこと。プレイヤーが何を重要だと見出すかにかかってくるんだ。ただ、基本的にこのゲームを遊んだ人は何よりも動物を好むようだね。とまあ、こんな感じにいつまでも説明することもできるけど、要するにこのゲームは人間ではない目線から世界を見ようとしているということなんだ。

Baiyon:
それって、アラン・ワッツの著書「The Book: On the Taboo Against Knowing Who You Are」を思い出させるよね。すべては繋がっているんだ、と。たとえば、ここに球体があったとして、その球の表面上の中心点とはどこか?答えは「どこでも中心点」だと言える。つまり選んだ点は自分の視点であり、その他の無数の点は他人の視点という事になる。言葉上は「どこでも」と言えても2つ以上の視点を持つ事は実生活において容易な事ではないと思う。
このゲームを遊んだとき、自分はいつも「視点」について考えられる素晴らしいゲームだ、と感じた。世の中は単に白黒に分けられるものではなく、すべてを一つとして捉えるべきなんだって思ったよ。

『Everything』におけるゲームの目的

───ほかにも、ユーザーから「このゲームの目的は何なの?」と聞かれることもありました。


David:
それは実は難しい質問なんだ。なぜなら、人々の目的はすべて異なるから。かと言って、ユーザにとってそれが十分な説明じゃないことは分かってる。実際、このゲームを作ったとき、目的が不透明過ぎて誰もこんなゲーム好きにならないんじゃないかって思ってた。このゲームはある視点から生命を見ようとしている。生命、人生の意義とは何ぞや?という質問みたいなものだよ。もし急に誰かが君に「ねえ、人生の意味って何?」って聞いてきたら戸惑うだろう?でも、僕らはさまざまなものが相関してこの生態系を作り出していることを知っているでしょう。僕は、アーティストの役割というのは、我々生命を取り巻く世界がどう成り立っているかを表現することだと思っている。

僕だけじゃなく、小説家、音楽家、誰だってね。どの職業も似たような目的を持っていると考えている。まあ、「ゲームの目的」というのはそりゃ大事だろうね。でもなんというか……プロジェクトを始めたときにもそんなことはものすごく考えたよ。

たとえば、RPGを遊ぶときは、悪いやつがいる場所までの邪魔なものを取り除いて、悪いやつを倒すのが目的だ。でも、自分は探索がすごく好きで……だからいつもゲームの終わりには「なんでモンスターを全部倒して平和になったはずなのにモノ悲しさを感じるんだろう?」って思ってた。歩き回っていた世界から急に目的が失われた。もうこれまでと同じ楽しみはないんだ、と。これまでの世界の捉え方とは違う見方をしなきゃならなくなる。だから、『Everything』はたとえば『ダークソウル』でモンスターが全員いなくなって、倒すものがなにもない世界。ただ他の生き物が生きていく世界、みたいなものかなぁと考えたりしていた。

Baiyon:
ちなみに日本のゲーマーについて、ネットの記事で読んだことがあるんだけど、結構な数の人が、ラスボスの手前でやめちゃって、RPGをクリアしないというのがあるらしいね。理由はいろいろあると思うけど、もはやゲームに対して美学を求めている感じがとても興味深いと思う。

David:
ほんと!?それは興味深いね。完全に共感できるよ。

Baiyon:
だよね。また別のアラン・ワッツのスピーチ、ちなみにこれは僕の特に好きな一編なんだけど、それを思い出したよ。要約すると「基本的に、人間の日常においての行動のほとんどは常に未来のための準備であって今のためのものではない」。

食べることや作ることもすべてそう、お金を稼ぐことも、将来を生きるために必要なことであって、その瞬間をただ享受するような行動を人間はほぼしていないということなんだよ。自分自身のことを考えても、本当にそうだなと思った。ビデオゲームに関しても、遊んでる瞬間瞬間すべてを楽しませることは難しいと思う。

テトリスとか、シューティングとかそういう没頭できる系のゲームは「ただ瞬間を享受する」ことが可能かもしれないけど、基本的にストーリーやドラマがあるゲームや、お金の概念、アンロック要素があるゲームにおける基本行動はほとんどがゲーム内の未来に対する準備行動でしょう。もちろんそれが悪いという話ではないよ。


『Everything』は視点シミュレーター

David:
確かに……そういえば自分が日本語の「あそび」という言葉がplayingとgameの両方を意味することを学んだときのことを思い出したよ。「あそび」は純粋に目的もなく遊ぶときもあれば、瞬間を楽しむためのものもあるし、もちろんゲームという意味もある。でも英語だとそれらは全部とても違うコンセプトを持ってる。gameはいつも競争する要素があり、常に勝者が存在する。そして、競争と同時に瞬間瞬間を楽しむ要素が両立する場合もありうる。

『Everything』は視点シミュレーターとでも言うべきもので、それが持つアイデアの一つは……我々は未来という概念と、過去という概念を同時に持てるということ。僕はこれこそが人間を人間たらしめている要素だと思っていて、なぜなら人間はこれのおかげで将来を予見でき、過去から学べるからなんだ。ただ、現実とは何かという考えが、将来や過去に起きた出来事一つに影響されて凝り固まってしまうというのもよくあることだね。そういうのは、人生をナビゲートするために信頼の置ける情報ではないことが多い。なぜなら、未来に何が起きようとも、想像したものと同じことにはなりえないし、過去に起きたことというのは実際に起きたことではなく、選ばれた事象だけが記憶に残っているからさ。

このゲームでは、ユーザーには何が起きているのかということを気にせず遊んでもらうようにデザインしているつもりなんだ。これは、コントローラーを触らなくてもゲームが勝手にプレイしてくれる機能と関わってる。ほんとうにプレイしなくても、ゲームは勝手に始めてくれるし、いっそゲームをクリアまでしてくれる。何度やっても毎回違うルートでね。アビリティも取り、モノも集め、始まり、終わる。全部自動だけど全部ランダム。

「なぜそんなゲームを作るんだ?誰もそんなの遊ばないだろ」と言われるかもしれなかった。でも実際のところ、たくさんの人が遊んでくれたし、やり込んでくれる人も出てきた。だから、今ではこういう作品と、考えが存在する余地がやっぱりあったんだと思えている。まあ、ぶっちゃけ僕にとっても大きな驚きだったけどね。

───話を聞いていて、プレイヤーがパラメータなどを設定し、パーティの帰りを待つお使いゲーム(放置ゲーム)のことを思い出しました。数時間待つとパーティが戻ってきて、プレイヤーは旅の成果を確認する、マネージャーのような立場になってましたね。『Everything』のケースとは若干違いますけど。ヒーローになりたいんじゃなくて、展開を見たいだけという人も結構いるんじゃないかなと思ったりします。

David:
そうだね、どっちも面白いよね。たとえるなら、本を読むのと、オーディオブックを聞くことのようなものだと思うんだ。どちらも「物語を知りたい!」という動機から始めるものだけど、本を読むときには単語とかに集中して読み進める。けど、オーディオブックだと集中してもしなくても読み上げは止まらない。オーディオブックは「プレイ」し続けるわけだ。『Everything』はその両方を混ぜ合わせたように、意図的に遊ぶこともできるし、そうでない遊び方もできる。

世界中を回っていろんなモノを集めたり、話しかけたりできると思えば、急に一時間くらい投げ出して、戻ってきたらどうなっているか見て驚き楽しむこともできる。だから我ながらこのオートプレイ機能はお気に入りだよ。ドキュメンタリーモードというのもあってね、映画というか、番組風にしてくれる。これはカメラもキャラクターも自動で動かしてくれて、シンプルな自然番組みたいな見方もできるんだ。システムによってこんな世界を作り出せるということが本当に面白いよ。


Baiyon:
ゲームとして体験自体がとても楽しかったよ。自分がゲームの中で石になって動いているとして、僕自身は石がダンスしたりしてるのを見ている。ここに既に視点が二つある。 そこにいる僕と、見ている僕が同時に存在するというわけだよね?アイデンティティと視点の与える影響について似たような疑問をいつも持ってる。たとえば、水族館に行って僕が思うのは 「ここで泳いでるマグロは自分たちが美味しいということを知っているのだろうか?」ということ。そしてもしマグロが自分たちが美味しいと知っていれば泳ぎ方が変わったりするのだろうか? そもそも彼らが美味しいと思うのは人間だけなんだろうか?マグロ自身は試してみた事はあるのだろうか、とか。

そういったことをいつも考えてしまうんだけど、『Everything』はこういうのを考える良いきっかけになるゲームというか、もはや自分的には装置みたいなものだと思ってる。

David:
そうだね、いつもの枠から飛び出た考えをする、みたいなね。以前、「ユーザーがこのゲームを好きなところは何か」というのを聞いたんだけど、それによるとゲームを遊んだ後、彼らの現実世界での考え方、物事の捉え方が変わったらしいんだ。ゲームがメンタルモデルみたいに機能して、何らかの現象かのように『Everything』というモデルがプレイヤーの深層心理に残っている、と。そういうのを聞くと嬉しいよね。

なぜ人間はゲーム内に存在しないか?

───先程の質問で、モノとしての視点、そのモノを見ているあなたとしての視点とどちらも成り立つと仰っていましたが、その「見ている」あなた、「人間」はゲーム内に存在しません。なぜでしょうか?

David:
その質問は基本的に答えるつもりはないんだ。ただ、ひとつ言えることとしたら、このゲームはたくさんの別のモノたち、微生物から宇宙までさまざまなエコシステムをハッキリと描いている、ということ。というのも、人間の知覚の限界を表現したいからなんだ。僕ら人間はとても限定された世界を見ているし、どのくらい限定されているかも正直分かっていない。

なぜなら、僕ら人間は、自分たちが知覚できていないことを表現できないから。つまり、世界にあるすべてのモノを描くことによって、同時に我々の精神世界の限界を描こうとしているんだ。まあ、実際は無理なことだというのは分かっているんだけど。なぜなら我々は「わからない」ことは「わからない」からね。ただ、人類として我々は、我々を取り巻く環境についての考えを持っているよね。でもそれはとてもぼんやりとしたもので、リアルなものではなく、何か遠くに存在している……。

僕らは環境そのものを理解することができない、なぜなら僕らは……と言うより、基本的にモノは自分自身を通してそれ以外すべてを見ている。あなたにペットの犬がいるなら、ペットはあなたを大きな犬として見ているし、ネコならあなたは大きなネコだと思われている。だから、僕ら人間としてはこの世界を見ていると同時に、別バージョンの僕らがさまざまな僕らを見下ろしているようなものなんだ。


人間を知覚するために必要なのも似たようなことだけど、自分が思うに、それは僕ら個人が自分自身のために考えなきゃならないことだ。だから、ゲームに人間を出してしまうと、みんな単純に人間になろうとしてしまうと思う。ただ、ゲームの目的は人間を表現することじゃなくて、さっき言った限界を表現するためにあって。

言い換えると、誰かが世界を表現しようとするとき、それは結局彼らのバージョンの世界、彼らの心のなかにある世界に過ぎない。彼ら自身の心を表現する一番いい方法は、世界を表現すること、そんな感じかな。ヒトを追加すること自体は簡単だけど、それをするとゲームで表現したいことの妨げになってしまうんだ。

Baiyon:
それに関する僕の考えを言ってみていいかな。なんで『Everything』に人間がいないのかという質問に関連したものなんだけど。Davidはイデアという言葉は知っているよね?

David:
ああ、知っている。

Baiyon:
すべてのモノはイデアを持って生まれてくる。たとえばハサミなら「紙を切る」という明確な存在の意味、そして理由がある。逆に言うとそれがなければ誰かがそれを作る事はなかった。それについて考えていた時に、この世で唯一はっきりとしたイデアを持たないまま生まれてくるモノがあることに気が付いたんだ。それは人間。ある意味人間は死ぬまでイデアを探し続ける奴隷とも言えるね。何故自分は生まれて来たのか、それを探し続ける。もしかしたら途中で変わったりするかもしれない。

ある意味それはとても美しい。けど同時に意味を探し続ける奴隷でもあって、人間は永久に「意味のある人生」というものを探し続ける存在なのか?『Everything』に人間が出てこないのも、そういうことに関係しているのではと思っていたよ。自分が持つユーザーとしての意見はこうだけど、Davidはどうでしょう?僕が遊んだ理由は「自分がこの世界に存在するためのイデアを探すきっかけの為」と言えるかもしれない。もう既に自分は人間だからね。それ以外になる事の方がなにかに近づける気がする。Davidの考え方と合ってるかな?

David:
そうだね、合ってると思う。僕らは生まれたときにも別に特別な目的を持たされて生まれるわけじゃない。僕らの人生は基本的に無限の可能性があるわけじゃない。どんな方向に進んだとしても、エコシステムや自然に沿った、ある意味予定された何かが待っているはずなんだ。そして、僕らがやることや持っているモノにも、特に目的がないことが多い。たとえば……そう、このゲームで言えばダンスだね。Baiyon、君は以前、このゲームを最初に遊んだときに一番好きなのはこのダンスだと、なぜならもっとも無意味な行動だからだ、と言ってくれたね。

Baiyon:
そうだね(笑)。

ダンスは無意味だがそれが良い


David:
無意味だけれどダンスが好き、という言葉はなにかとても深みを感じた。だからそのときの会話を覚えてたんだよ。確かにダンスはある意味とても無意味だ。あ、現実のプロのダンサーさんたちはもちろん別だよ。でも、多くの場合、誰かが踊るときにはただ楽しむために踊ってる。

無意味であるなら、なんなんだろう?なぜ僕らは踊るのか?僕らが踊るということは、とても原始的なことだと思っているんだ。なぜなら「すべての生物は何らかのパターンを組んでいる」から。パターンを組んでくっついたり離れたりしている。鳥とか虫とか、植物も含めて、一見不自然に見えるほどの組織だった行動を示したりする。

そういうのをまとめてこのゲームでは「ダンス」と呼ぶことにしてるんだ。そしてこの「ダンス」から子供が誕生する。こういったパターンというのは、宇宙や銀河でも共通のものがあると思っていて、逆に分子でも同じ、彼らはやたらと回転するのが好きだよね。このダンスというのは、ゲーム史上もっとも意味のないことかもしれない。確かめてはいないけどね。ただ、この作業をしている間はとても大切な瞬間だったよ。この宇宙にあるすべてのモノが一定のパターンで動くということを面白く、そして美しく見せる、しかもそれに意味はない、ということを示すためだからね。

あとは、ゲームではたくさんのモノがいろんなことを考えているけど、モノ自身がそれらの存在理由について考えている。あるモノは将来何が起きるか不安がっているし、別のモノはその環境に馴染めるかどうか考えている。どれもこれも、生まれてから、「あれ、あの場所は行ったかな?それともここにいた方がいいかな」とか「何をするべきなんだろう」とか悩んだりしているということ。すべてのモノが同じ状況なんだ、虫も、鳥も、すべて。ゲームはそんな状況、モノがそれ自身について発見していく過程を表現しようとしているんだ。

Baiyon:
ゲーム中で、モノが、自分たちがそのモノだと自覚しているのが、とても面白い。木があれば、それは自分が木だと分かった上で会話するよね。長らく疑問に思っていたんだ。ニワトリに「自分たちはニワトリなのだ」という自覚があれば、鶏肉の味はより良くなるのか?と。

David:
ニワトリたちが自分たちはニワトリだと分かっていたら、美味しくなるかということ?

Baiyon:
そう。いろんなドキュメンタリーなんかを見ていたら鳥は自分たちが誰なのかも、どこにいるのかも何も知らない間に屠殺されて食肉として出荷されて、それを僕達が食べてるのかなって思ったことがあって。自己を認識していれば、味は変わるのかな?そしてそれは人間だけが人間の視点と味覚で感じるもの?

僕も毎日のように、自分とは一体何なんだ?と自問しながら生きてるけど、人生が豊かになっているかはわからないし、自分の体がより美味しくなってるかどうかなんてわからない。そしてそれは動物として進化してると言えるのかもわからない。

David:
確かに。それはね、実に美しい疑問だよ。今僕に答えは出せないけれど。でも確かに、僕らは自分自身が何者かということにはっきりとした答えは持っていない。ただ、ごく普通の毎日を送るだけでも、僕らは常に多くの決断を何かしらしてきている。世界中で、価値が判断されている。これはダメなことだ、これは良いことだ。彼は良い政治家だ、やつはダメな政治家だ。これは大事なことだ、これはどうでもいい。これは美しい、あれは醜い……。すべてのものに何かしらの決断が下されているよね。

僕らは他人の目に自分がどう写っているのかを、永久に判断できないんだ。そう、声という例が分かりやすいよね。録音、録画した自分の声を聞くと、全然違うように聞こえる。また、友達が自分の写真を撮ってくれたときに、「あれ?これが自分?全然違うじゃん!このカメラ壊れてない?」とか。100枚撮ってもらってようやく「おっ、これ自分っぽい」ってなったりもする。

つまり、僕らは自分自身というものが信頼できる根拠なんてないんだ。自分自身の本当の姿もわからない。でも、自分を取り巻く世界に関する意見を持っているとき、その世界は確かに存在する。自分たちが自分自身の見た目についてすら実際はわかっていないということを気づかせることができれば、なにか良い結果が待っていると思う。自分たちの限界、というか制限しているものを理解さえすれば、そして我々は「人類という視点」からしか物事を見れないのだということを認めれば、世界はもっとミステリアスで、エキサイティングで、多くの発見すべきものに映るはずだよ。もっと探検できるし、もっと恐れられるべき世界として。



『Everything』は一種の社会実験

Baiyon:
『Everything』って一種の壮大な社会実験だと思うんだ。人間は自分自身が何者なのか分からない、分かりようがないという話があったけど、たとえば日本では東日本大震災の後に生活や考え方が一気に変わった。

僕らの親の代ではもっと考え方はシンプルだった気がする。それこそ同じ時代のアニメとか漫画は割と「あいつが悪いやつで、こいつは良いやつだ、以上!」的なとてもシンプルな感じで。いわゆる勧善懲悪ってやつ。でも今は問題が複雑すぎて、誰が悪いとはっきり言えない事が多いよね。ネットで検索すると当然両方の視点の意見が出てくるし、しかも両方の視点や論点が納得出来る事も良くある。簡単に良い悪いと判断することが本当に難しいと思っている。なんだったらすべての問題の根源は結局自分なんじゃないかって普通に思う事もあるよ。

たとえば新聞を読んだりして「この人はいい人だな」って自分で判断したりする。でも実際のところ、良い人でも悪い人でもあるというか、正直どちらかだけということは考えにくい。僕が理解出来るレベルの善悪の判断は現代の問題にも有効なんだろうか?と。そして現代のアニメや漫画ではそういった部分を風刺したようなものが多いなと感じてる。

たとえば「進撃の巨人」とか「約束のネバーランド」とか。人類全員がとてつもなく大切なことを忘れさせられている。たとえば僕達は誰かに食べられる為にまるで家畜のように生かされているだけのかもしれないし、その誰かからしたら僕達なんかはただの遊びの実験道具くらいにしか思ってないかもしれない。目を覚まさなければその先はない。自分の価値観を疑え。目の前で起きている事をそのまま受け取るな。思考せよ。僕らは自分が誰かわからない、何が良くて何が悪いのかもわからない。そんなカオスな現代に生きている。でもそれが、おもしろい。

David:
そうだね……はっきりとは言えないけど、そういう決定を下す個人個人が、この世界で機能するためには、現実を単純化したものが必要となる。僕らが知覚できるもの、いや、できないものというのはほぼ無限にあって、知覚できたものだけが僕らの「現実」だ。この世界における99.999……無限の9が続くくらいの%のモノは僕らが知覚できないもので、それも踏まえて、命ってのはほんとうに複雑なものだと思う。いくつかの前提条件は必要だよ。人類は大切、命は大切、生き残るのは大切…… 全部真実。

でも、それと同時にこの宇宙にとって我々は必要じゃないということは、僕は理解している。将来的には僕らがどうあがいても人類の歴史はどこかで終わる。でも命、宇宙はそのまま続いていく。そこらじゅうで。僕らにはタイムリミットがある。だから、このゲームではプレイヤーに体験させてみているんだ、可能な限りもっとも広い視野で物事を見るという体験を。

『Everything』の音楽について

Baiyon:
『Everything』の音楽とサウンドについてなのだけど、『Everything』の音楽を手掛けたBen Lukas Boysenさんはポスト・クラシカルという文脈の中でも好きなアーティストなんだよね。僕はゲームの音楽を手掛けるアーティストとしては、ゲームの構成要素の一つとして機能して、なおかつ音楽的な価値、言い換えると音楽史の流れの中でもしっかり評価されるようなバランスが大事だと思っているんだ。ゲームを通してもっと音楽に貢献したい。たとえば、音楽だけが一人歩きして、ゲーム用に作られた曲だと知らずに音楽としてただ聞いているだけの人もいる。みたいなのが理想だね。

DavidがBen Lukas Boysenさんを選んだのは本当に良いことだったと思う。表現としてとても今の音楽の発展の流れにもフィットしていて、まさにジャンルの名前の通りクラシックでかつ新しい表現だからね。

アラン・ワッツについて

Baiyon:
もう一つ、『Everything』のオーディオとして、何より大事なアラン・ワッツのスピーチに関してなんだけど。ゲーム作りの際には、時間と制約がいつもつきまとう。リスクを避ける傾向もある。だからエンターテインメントにおいて「本物」である、というのは必ずしも重要でないのかもしれないし、優先順位としては残念ながら高くないと思う。アラン・ワッツに関しても、許可を取るのは大変だし、選んだりすると時間がかかるから新しいスピーチを作っちゃえばいいじゃんとなりそう。

David:
そうだね。

Baiyon:
たとえばAAAタイトルだったらアラン・ワッツ風のフェイクスピーチを作っていてもおかしくない。そこにはいろんな理由と判断があると思うけど。

David:
あるかもね!

Baiyon:
だからこのゲームのアイデンティティとして、「本物のアラン・ワッツのスピーチが使われている」ということは最も重要な事だと思ってる。そこがこのゲームに関するもう一つの大好きなところだね。アラン・ワッツのスピーチの使用権に関するやり取りに、1年くらいかかったとか言ってたっけ?

David:
1年どころじゃなくて、実際のところは2年以上続けていたと思う。アラン・ワッツの息子さんと僕だけで意見を行ったり来たり……。だから、最初にこのゲームの動画を見たのは実は彼なんだよ。

というのも、僕は彼に知ってもらいたかったんだ。これは良くある「使いたいんだけど、いくら?」といったお話ではなく、このスピーチこそがゲームの中核であり、かつこれはすごく重要なアートプロジェクトなんだと、宣伝とか商用のためじゃないんだと。

でも、長かったね……。まあ、僕が非常に多くの素材を要求していたというのもあったと思うけど。ゲームには3時間以上のボイスデータが入っていると思う。アラン・ワッツのボイスを使おうという人は多くの場合、10秒とか20秒とか、ほんのちょっとのケースばかりなんだ。しかもCM用だから彼らはお金に頓着はない。AppleのCMとかでも使われてるよね。

Baiyon:
最近ではXbox Series Xのトレイラーでも使われてたね。

※ Xbox Series X – Official Console Announcement Trailer

David:
そう(笑)まあ、それはそれとして、ほんとによく聞くよね。でも、ほとんどの場合そんな感じに短く使われる。そして、大変お高い。しかも彼らはゲームに組み込みたいという要望は初めて受けたらしい。そこで僕が「そうだね、3時間分くらい使うつもりだ」と言ったら、それは何百万ドルかかるかな、という顔をしていた。実際にそう言われたわけじゃないけどね。でもそうなってもおかしくはなかった。だから、今回は違うんだ、と。僕がゲームに使う方法はちょっと別で、たしかに何時間ものボイスはいるけど、プレイヤーみんながじっくりと聞くわけじゃないんだ。音楽と似たようなものなんだ、と。

そうそう、音楽といえばBenにサウンドトラックを作ってもらったけど、結局僕はアラン・ワッツのボイスと同じくらい、つまり3時間分くらいの音楽を作ってもらったと思う。Baiyonも作曲家だから分かると思うけど、映画音楽だったら必要になるのは30分から1時間分の音楽だからだいぶ違うよね。でも、これらは用途が違うだろう?

ゲームでボイスオーバーをつけるとしたら、テレビ番組で普通に話すのより5倍か10倍の時間がかかる。なのに、ゲームだから逆にお金はかけられないという……。まあともかく、ゲームはなにか別なんだよね。ゲームを通して音楽を聴くプレイヤーには、テレビ番組とかとは違って、もっと深いレベルで感覚を伝えられる。

特に、僕が使いたかったアラン・ワッツのボイスは特定の話題に関するものだけだったんだよ。これまでアラン・ワッツコレクションの一部は聞いてたけど、全部聞いたことはなかったんだ。欲しいところは分かってたんだけど。だから、アラン・ワッツの息子さんと話し始めてから、全アーカイブを聞いてみることにした。大体300時間は聞いたかな。アラン・ワッツは本当にありとあらゆるトピックについて話してたから、自分が欲しい箇所を探すのが大変だった。僕は「この宇宙におけるヒトという存在」について話している内容を探していて……。

アラン・ワッツの話を聞くのは楽しい

Baiyon:
話の途中にちょっとゴメン(笑)読者に伝えておきたいことがあって。300時間のアラン・ワッツ講義と聞くと、人によってはそんなに哲学的な話を長々と聞きたくないよと敬遠してしまうかと思って。哲学の話はただ内容をややこしくしているだけで面白くないしエンターテインメント性に欠けると思ってる人が多いという印象がある。だからアラン・ワッツの講義は実際にすごくおもしろいんだと、ここで強調しておきたいんだ。僕達は別に理屈っぽいことにあこがれているのではなくて、「考える」ということは、それはもう本当にめちゃくちゃ楽しいんだってことを伝えたい。

David:
そうだね、全然苦痛じゃなくて、とても楽しい時間だったよ。なんというか、講義と言っても違うんだ。アラン・ワッツの話の美しいところは、彼はいつもユーモアを持っていて。講義というような大仰なものではなく、歴史的知見や哲学知識もいらない、なんというか「この世界に存在するヒトである」という認識さえあればよかった。あと宿題もなかった(笑)ややこしい用語もなかったね。彼はもちろんとても多くの文献を読んできていただろうし、宗教と哲学は熟知していた。でもそれを誰にとってもとてもわかりやすい形で伝えるという稀有な才能を持っていたんだと思う。

これは本当にすごいことだよ。こんな人は今日あまりいない。意味合いを失わず、薄めないままに物語方式で簡潔に伝えられるなんて。ゲームに入っているスピーチは、ゲームとセットで聞いてもらうためのもので、章全体を抜き出してゲームに入れているわけでもないし、上手くゲームに使えるように結構いじってるから、元々の文章がどんなものだったか、プレイヤーの皆さんにはぜひ調べてみてほしい。あと、字幕システムもこのためだけに僕が1から作ったから、それも読んでみてほしい。アラン・ワッツを知らない人にとっては、このゲームは良い教科書になるんじゃないかと思ってる。


───ちなみにアラン・ワッツのスピーチ、翻訳者さんとのタイミングなどが合わず、結局自分が全部翻訳することになったんですが、アラン・ワッツのスピーチをコンテキストを失わずに翻訳するというのはとても大変でした。哲学的要素や、ややこしい内容は含めず、読むだけでスッと入ってくるようなわかり易い文章にすることに気をつけてました。まさに今Davidが言ったように、アラン・ワッツは講義というよりは友達や家族に話すような感じでしたし。まあ、それでも割と哲学的な内容や、何を言っているのかまったく分からないものもありましたが……(笑)そういうものは分かる範囲で、意味が通じるように意訳しましたね。

Baiyon:
いやいや、ほんとに良い翻訳でしたよ。実際、『Everything』の日本語版を作っているという話を聞いたときには「まさか、本気であれの翻訳をするのか、本当に出来るんだろうか」くらいの感覚でしたからね。だから、山中さんに言ったんですよ。「なにか手伝えることがあればなんでも言ってくれ」と。このゲームは本当に面白い、ということを伝えられるようなローカライズにしたかった。理屈っぽすぎず、ユーモアも感じれるようなね。「考えることは楽しいんだ」と。

個人的に日本では、考えることや哲学的や概念的な話をすることは敬遠されている気がする。「そんな良く分かんない話ばっかしてないで、それよりもビール飲んで馬鹿話しようぜ」みたいな(笑)不思議な事に皆あまりそういうことをしたがらない。真面目に考えるのがなにか怖いのか、つまらないと思っているのか……。だから『Everything』は、「考えることは楽しいんだ」ということを、アラン・ワッツのスピーチを聞いたりして、別アプローチから、というか誰もが予想しなかった方法で人々に伝える、最高のツールなんだと思う。

David:
そうだね、実際僕は日本人じゃないからわからないけど、日本人のみなさんが、どう思うかというのはとても気になってるよ。だって、このゲームに含まれているアイデアはほとんどが日本から来ているものだからね。

「禅」

David:
アラン・ワッツはさまざまな宗教について語っているけど、このゲームに収録されているものはほとんどが禅に関する話ばかりだ。でも、禅っぽいイメージを除いた、禅から影響を受けたアラン・ワッツのアイデアとして語られている。宗教的要素はなく、考え方としての禅、だね。「禅」という単語を聞いて、人々が受ける印象はなんというか、もっと固いものだと思う。

ここでのアイデアはもっと透明というか、モノの見方であり、形は持たない。そもそも禅って無を語ることだったよね?無というか空というか。まあ、そんなこんなで禅について元々知っている日本人プレイヤーにとってどう映るか、全然新しい見方なのか、理解しやすい見方になるのか、わからないけど気になるよね。


───そうですね……。正直そこが結構不安です(笑)

David:
まあ、心配するのは悪いことじゃないと思うよ。僕だってそうだった。心配があるから喜びもあるんだ。

Baiyon:
僕も興味ありますね。『Everything』を遊んだ多くの人が、これまでとはなにか違うことを考え始めるのか……。ただ、自分自身について知ることは果てしない。それこそ禅の考えが出てきますよね。

自分についてどれだけ知ろうとしても、最深部に辿り着く前にいつも意識が邪魔をしてくる。パソコンのOSみたいなものだよね。考えるのにOSが必要で、それを取り除くことはできない。そしてOSを起動して動いたり思考したりしてるから、そのベースになってるシステム部分をスキャンすることは出来ない。だから「意識はもっとも検閲を逃れうる存在である」というのはすごく納得いく話だよね。

そして最後には、無意識の行動にこそ本物の君が潜んでるんだよ、などと言ってくる人がいたりする。それは僕が欲しい答えではないんだよね(笑)僕は自分の意識について知りたいのであって、無意識とか潜在意識がよこす答えはまだあまり興味がないかもしれない。

子供は純粋に遊ぶ

David:
同意だねー。あ、そういえば、哲学的な側面について話していて思い出したんだけど、日本で去年インスタレーションのイベントをやったんだ。そこで子どもたちが『Everything』を遊んでて。ちなみに僕は子どもたちが遊んでいるのを見るのが一番好きだね。だって、彼らは僕らと違ってまったく別のアプローチ、完全に純粋な遊び方をしてくれるんだ。

たとえば、「僕は岩なんだね!この木に話してみよう。友達を誘ってみよう」って感じに、疑問とか持たずにそのまま、ただただ純粋に遊んでくれる。また、僕にとってもそうだけど、彼らにとっては日本語を学ぶ良い教材にもなってるんじゃないかなと思う。だって、操作しているモノの名前がしっかり表示される、動く3D百科事典みたいなものでしょう。音も鳴るし。

たぶんね。漢字とか、モノの名前を覚えるのに使えると思う。僕が漢字を勉強し始めた頃、何がしたかったかというと、実際のモノを見ながら「あれが牛で、あれが道路で、これが家なんだね」と、そういう勉強法がしたかったから、良い教材に使えるよ。子どもたちなら「一体何が起きているんだろう?」という自己認識の楽しさを味わってくれると思うね。まあ、何にせよどういう評価になるかは出してみないとわからないよね。

───Nintendo Switchは子どもたちに人気のハードですし、彼ら自身でゲームを買うこともできる。だから、Nintendo Switchの『Everything』を遊んでくれる子どもたちは結構多いんじゃないかと思います。

Baiyon:
僕の甥に遊ばせてみようと思ってるよ。

David:
ぜひ頼むよ!


───ちなみに、アメリカやヨーロッパでは既にPS4とNintendo Switchでリリースされてるわけですが、新規ユーザーからのフィードバックなどありましたか?『Everything』についての予備知識がなく遊んだ人たちからの意見があれば。

David:
Nintendo Switch版のリリースはまずいろんな人に驚かれたね。フィードバックとは違うけど、みんな僕に写真を送ってくれたよ。Nintendo Switchの良いところはやはり携帯性だね。PS4は持ってないけどSwitchなら持ってるって人も多いし。市場が違うんだろうね。
まあともかく、子供と一緒に遊んでる写真を送ってくれたりするんだ。お年寄りの方も同じように写真を送ってくれている。70歳で、これまで人生でゲームなんかしたこともないって人もね。これは素晴らしいことだったよ。

Baiyon:
お年寄りはどうやってゲームを見つけたんだろう?

David:
ああ、たぶんだけど、孫たちが見せびらかしたんだと思うよ。それでついでに遊んでみようってことになったんじゃないかな。

「リアルに見えること」は重要ではない

───『Everything』を高く評価する人もいますが、そうでない人もいます。レビューでも結構幅が広くて、星2つや1つをつける人もいますよね。これに関してはどう思いますか?

David:
うーむ、僕はレビューが真っ赤になってるとかじゃない限り詳しく見ないからわからないけど……(笑)前作の『Mountain』を作ったときもそうだけど、ゲーマーたちにどう映るだろう、って考えたことは一度もなかったんだよ。自分でもゲーム遊ぶの好きだし、現代のゲームのテクノロジーは最高だと思ってる。僕が『Everything』プロジェクトを始めたときの目標は、みんなが楽しめるなにか美しいものを作りたい、だった。それ以上でもそれ以下でもないね。


前作『Mountain』


David:
それから一応プロジェクトは進化して、僕も良いものを、もっと良いものを作ろう、としてたけど……。そもそも万人を満足させるようなものを作ろうとはしてないんだ。元々の目標設定を信じて、それを実現させるためにがんばってただけ。ゲーム開発には制限がつきものだ。表現なり、移動方法なり。ステージの連結方法なり、オブジェクトの数なり、制限だらけだ。

そういうのは開発において妥協していかなきゃならないポイントだというのは分かってる。ただ、アートというのはそもそもAbstract – 抽象的なものだと思ってる。現実は何かしら歪められて表現されるものだから。これまでの僕のアニメーションなりムービーでも、観客に向けてこれは抽象的な出来事だ、抽象的な世界だ、抽象的な現実だと伝えてるつもりだよ。だって、世界が君の目を通して見られている時点で、もうそれは現実の世界と同一ではないわけだし。そういうことで僕は僕の作品に合わない人がいるというのは気にしてない。

それと、僕の経験上、そういう人たちに説明とか言い訳とかする必要ないって分かってるんだ。なぜなら、Steamコミュニティの他のユーザーたちがなんでも話し合ってくれるし、それで納得する人もいれば、納得しない人もいる、当たり前だよね。

そもそもこんなおかしな考えで始まって、そのおかしな考えを実現させるために3年間かけたプロジェクト、完璧だなんて言えるわけないし、欠点なんていくらでもあるよね。でも、2億円あげるから動物の動きをリアルにしてくれとか言われても絶対やらないね。そんなお金もらったら別のプロジェクトを始めるよ。

Baiyon:
じゃあ、リアルに見えるということはDavidにとって別に重要じゃないということ?

David:
そうだね、物事はもっと抽象的でいいし、曖昧じゃないものに曖昧さを与えてもいいと思ってる。

Baiyon:
でも、このゲームで表現したいのは何かしらのリアルだと思ってたけど。

David:
うーん、なんというか。アートはそのときその瞬間に起きているすべてについて表現することはできないよね。写真であれば、その一瞬を切り取ることはできるけど、写したところ以外は一切表現できないものだよね。

「間違った理解」は存在しないので、ネタにされても気にしない

───日本では、とにかく笑えるゲーム、変なゲームという感想が多かったです。『Mountain』はちょっとしたネットミームになっていて。そのような反応に対してどう思いますか?

David:
マジで!へぇ~。すごいね。いや、でもアートに関して「間違った理解」ってのは存在しないから、人々がどうカテゴライズしようとも僕は嬉しいよ。アートはどうとでも取れるからね。実際、僕もあれらのプロジェクトにユーモアがないなんて言うつもりはないよ。『Mountain』にも『Everything』にもたっぷりと詰まっている。ユーモアがあり、バカらしさがあり……僕はそういうのこそが命の大事な側面だと考えている。

たとえば、何かが哲学的だったり、スピリチュアルだったりするときでも、それが常に真面目一辺倒で、おかしさなんて絶対ない!とは言えないよね?自然というのは結構間抜けに見えるところが多くて。

ニホンザルのNatureドキュメンタリーとかそんな感じだね。自然には限りなく威厳のある一面と、ものすごく馬鹿らしい一面が同時に存在するんだ。極端なほどにね。それが素晴らしいことだと僕は思ってる。自然とユーモアというのはセットなんだ。それと、こういう要素があると、人々にとって受け入れやすくなるとも思うし。まあ、だからプレイヤーがどういう感想を持ったとしても僕は構わないね。


Baiyon:
ところで、Davidも僕もさまざまなメディアで表現し続けているアーティストだけど、そんな中でなぜ僕らはビデオゲームを作り続けるんでしょう?僕はまず十代の頃にデザインとアートの関係に違和感を持った事から始まっている気がする。

僕が大学で西洋画を学んでいた時に「デザインはアートよりも下でアートが何よりも高尚だ」といった空気があって、すごく居心地が悪かった。もちろんビデオゲームなんてアートじゃない、という考え方だった。もはや彼らの視点にまったく入ってなかったと思う。でも、僕はいつもそんな彼らに対して、風景画だって抽象画だって、筆のひと塗りストロークで線を引くのだってデザインあっての事じゃないか?と思ってた。

無意識の自分をキャンパスに映し出すものをアートだと言ってるけど、その考え方というかフレーム自体もはやデザインだからね、と。僕にとって自分の居場所を探すにはちょっとユニークさが足りなかった。もちろん今は状況が少し変わってビデオゲームに対する印象や評価も変わって来てると思うけど、なぜ僕らはそんな状況でアーティストとしてゲームを作り続けているんだろうか、と。僕はアートの神様をずっと探し続けてたらここに辿り着いたんだよね、たぶん。この先にアートの神様は待っていてくれると思う?

David:
デザインとアートという二つの概念の間が不思議な線で分けられている、というのはよく分かるね。誰しもがそれぞれの定義を持ってるしね。僕がゲームを作る理由はたくさんあるけど、1つとしては……誰かに驚きをもたらすというのが大事だと思ってるからかな。

アートギャラリーに行った人はもちろん、美術の出し物を見ようとして行っている。みんなの「アートとはなにか」という考えは、好みの違いもあるし、みんな異なるものを持っている。どんなアーティストであれ、やろうとしていることは現実を描くこと、だと思う。

そのためにツールがいる。絵筆が使われ、マイクやカメラが使われ、僕の場合は素晴らしく発達したCG技術を使っている。僕はゲームもアニメーションも作ってるけど、ゲームというのは、アニメーションを自然に延長したものだと思う。すべての要素を組み合わせたものと言うか。プログラムコードという、独特で美しいものを通して世界のシステムや力学や仕組みを描き出すことができる。

また、生命というものは、「すべてがどのように育って、どのように散らばっていくのか」といったさまざまな異なるシステムから成ると僕は捉えている。いわゆるアルゴリズムと呼ばれるものだね。プログラマーにとって、自然=システムという考え方は普通で、そういう意味でも自然をほんとうにリアルに描けるのがゲームなんじゃないかって。他の方法だと描けないなにかを表現できるのがゲームだと思っている。

たとえば、僕は日の出と日の入りがすごく好きなんだけど。もし僕が絵描きだとしたら、たぶんどちらか1つしか選べないよね。空の一部がまだ明るくて、一部は日没が描かれている、美しい絵を作ろうとするだろう。もしアニメーションで作るとしたら、日の出から日の入りまでのアニメを作れる。でもそれで終わり。アニメが終わったら終わってしまう。僕が好きなのはその瞬間だけじゃなくてシステム全体なので、もっと正確にその現象を表現するには、宇宙で起きているのと同様に、何度も何度も日の出・日の入りを繰り返すシステムを作ることになるんだ。ゲームだとそういう現象を、限りなく現実に近い形で表現できる。CGの究極的な未来というのは自然のシミュレーションだろうね。

アートは不可能を追い求めること

Baiyon:
でも、技術というものは人を怠惰にさせるものでもあるよね。Photoshopなんかもうカメラの知識なしでもすごいビジュアルを作り出せるし。音楽の知識がなくても曲を作り出せる技術まである。そういうのは、対象に対する愛の不足を埋めているような感じがして、手放しで技術の進歩を喜べる感じでもないんだよね。

David:
いつだって、簡単にできることはすぐ飽きるとも言うよ。アートというのは常に、これまで不可能だったこと、これまで表現できなかったことを追い求めているもので、ゴールは地平線の先にあるんだ。一生たどり着けないような先に。だから、簡単にできるのであれば、一気に無価値なことだと判断されてしまう。

これは浮動するものだけどね。確かに最近は誰でも写真を取れるようになったけど、そのおかげで特別さはなくなり、日常的で、普通に撮るだけじゃつまらないものになってしまった。そして、また違うものがアートとして不可能なものと成り代わっていくんだと思うよ。


Baiyon:
確かに。さっき言ったように当時僕がデザインとアートの関係について違和感を持ったことをきっかけに、ある実験をしてみたんだ。まず描きたい絵をイメージした後に画材屋に行って、目を閉じていくつかの絵の具を選ぶ。もしそれが全部緑でも全部購入する。そして題材関わらず緑だけで描く。描きたかったものがなんであろうと、実験の1つとしてやってみたんだ。

ただそのうちに「絵を描きたいと自分が思うタイミングに描ける」ということすらコントロールを放棄したくなって、大学の教室でそろそろ絵が仕上がりそうとか、今日はもう帰りそうだなみたいな感じの人に声をかけて、「ちょっとそのパレットに余ってる絵の具分けてくれない?」って聞いてまわって(笑)絵の具は乾いちゃうから基本的にその場で使わないといけないし、アクリル絵の具か油絵かそもそもわからないし……。つまり、ランダムさを作品に加えようとしてみたんだ。

これは結構面白かったよ。でも、ゲームを作るときに考えることは基本的に「論理的にどう実現するか」みたいな感じだから……感覚的なものを入れるのは他のメディアに比べて難しいのかなと思うよ。

David:
うーん、絵画だと既に一通りの名画というものは存在してるんだけど、ゲームについては今でもいくつか名作はあるにしても、真にマスターピースと呼べるようなものは今から5年10年後にならないと現れないと思ってる。

ゲームの名作期はまだ先?

Baiyon:
名作って、たとえばどれ?

David:
『INSIDE』。あと『ダークソウル』かな。

これに関して詳しい話はしないけど(笑)そうだね、美術学校に通ってる若者がいるとする。そこで、その若者がありとあらゆる題材や表現方法を選べるとしたら、まだ名作が存在しない方面に手を付けるのが一番エキサイティングだと思う。どのようなアートであれ、初期の実験期があり、探索期があり、名作期、そして名作が出尽くした後、というのがある。

例としては、そうだね、僕なら絶対古典音楽の勉強なんか始めたくない。なぜなら、もう素晴らしい名作が出尽くしているからだ。始めたとしてモーツァルトを超えられるか?無理だね。……まあ、ごく僅かな可能性があるかもしれないけど、まあ、無理だろう。でも、ビデオゲームはまだ新しくて、そのための技術もものすごい速度で進化していて、クリエイティブな人間にとってすごく熱い世界だと思うよ。

あと、君と同じく僕もこれがアートかそうでないかという考えに没頭することなんてない。そういう話題になったらいつもスッと身を隠すようにしている。つまらないしね。僕らみんな、どれがアートかという考えは持ってるけど、それは誰かを説得させるものじゃないから。

Baiyon:
まさにそうだね。Davidも同じことを何度も聞かれてると思うけど、「あなたの作品はゲームですが、これはアートでしょうか?」そんなことどうでもいいし、答えがあっても知りたくないよね。

David:
だよね。常に前を向いていなきゃ。


───最近のDavidのツイートで、ファンから他の言語へのローカライズはするの?と聞かれていたとき、いや~、もう勘弁だよと答えてましたよね(笑)。

David:
大変ではあったけれど、僕は日本語と英語に対応しているということだけですごく嬉しいよ。だって、日本語版っていうのは、このゲームのアイデアの多くが日本から来ているという意味で、僕にとってある意味シンボルみたいなものだし、日本自体、僕にとってすごく特別な場所なんだ。

日本は、アメリカやヨーロッパよりも多くインスタレーションアートとして『Everything』を展示してくれたし。だから日本語版ができて本当に嬉しいんだ。でもやっぱり、他の言語にするには気力も時間ももうなくて……。まあ、ローカライズは僕はほぼ関わってなくて、作業自体はほとんど山中さんだったけどね。まあそれでも他言語を追加するのは難しいね。

転がらない『Everything』もありえた

───ゲーム内で動物たちが転がって移動するのは、ゲームの作り方における制限と、それによる抽象さを見せたかったためでしたよね。でも、制限させるためだけなら、転がさずにそのままスーッと移動させれば良かったのでは?

Baiyon:
あれ、あの転がるのってDavidアニメーションのシグネチャーみたいなものだと思ってた。
いろんなアニメーションで転がる何かを見てきてますし。

David:
確かに、以前のアニメーションでも使ってたね。でも、ここでの「制限」の意味、重要性というのはミニマリズムとか、単純なということではなく、「最適化」なんだ。すべてを最適化するということ。単純に言っちゃえば、全オブジェクトを立方体にして名前をつけるというのも可能だった。

あるいは逆にリアルなモデルにすることもできたわけだ。でも、僕が目指したのはその中間だったんだよ。あのローリングにも実はモノによって二種類あってね。動物は頭から転がるだけだけど、他のものは横にも転がれるんだ。だから上下左右回転できる。動物たちの移動のほうがまだ自然らしいとは言えるね(笑)僕としてもあの動きはお気に入りだよ。おもちゃみたいでカワイイよね。

まあ、YouTubeとかでも「やる気ねーアニメーションだな!」みたいなコメントはたくさん見てきたけど、いや、実際あの動きを組み込むのはすごく大変だったんだよ!

一同:
(笑)

David:
ホントに、あのアニメーションにはプロジェクト開始時点からほぼ終盤までずっと苦労してて。だって、あのローリングさせるには、地面も平坦じゃないし、今モノがどこにいるのかとかのいろんな計算がすごく大変で。しかも舞台は自動生成だし。確かに単純化ではあるけど、単に一番楽な方法を探してるという意味ではなく、問題を一番スマートに解決するという意味の最適化だったんだ。

でも、最初からこうだったわけでもなくて、実際、おもちゃの馬みたいに揺れながら動くアニメーションも試して、テストしてみたんだ。そしたら、プログラマーと、サウンドデザイナー二人から猛反発を受けたんだよ。転がってるのがいい、って。これがいいんだって。で、結局今の形に落ち着いたってわけ。

───そうですね。僕もあの転がりは好きです。特に群れを大きくしたら、群れの中のモノ全部が一斉に転がる姿とか最高です。

日本文化は複雑

───そろそろ締めに入らせていただけますか。日本という国、そして日本語になったことが『Everything』、そしてあなたにとって重要だと仰ってくれました。そこで、改めて遊ぶ人や、初めて遊ぶ人に対してのコメントをいただけますか。

David:
そうだね、まず確実なのは、これから遊ぶほとんどの人にとっては、初プレイになるということだろうね。やっぱり言葉の壁というのは大きいものだし。特に日本語に関しては。英語がわからないけど遊んでくれた人にとっても新しい経験になると思うよ。でもなぁ……正直プレイヤーたちがどう思うのか、わからないんだよね。日本文化はすごくユニークで……。

Baiyon:
複雑?

David:
いやもう、すっごく。日本人の誰かが目の前で遊んでくれていてもコメントは難しいと思うね。だから、『Everything』を遊んでどんなリアクションを返してくれるかわからないけど、好意的であればとりあえず嬉しいね。やっぱり、どういう反応が来るかわからなさすぎてもはやミステリーだけど(笑)

というのもね、3、4年前に東京ゲームショウへ行ったときにもショックを受けたんだ。そこにあったのは『モンスターハンター』や恋愛ゲームとか、商業的に大きなものばかりだったことに。日本という国にはこんなに多くのテーマがあり、古典があるのに。僕は日本語の古い詩を読むのが好きなんだ。他にもすごい良い意味で頭のおかしいアートがたくさんあるよね。

なのに、ゲームになると一気に不自然なほど商業的になってしまう。他のメディア、小説だったら裾野が広いし、漫画でもとんでもない種類のテーマが扱われていて、ニッチなものからよくあるものまでなんでもある。でも日本のゲーム市場はそういった、他の日本のアートに影響を受けていないのはなんで?

僕がこれまで受けてきたような素晴らしい日本文化があるのに、そのお膝元である日本でのゲームユニバースは、日本の他のアートから影響を受けた生命の兆しが見えず、別の進化をたどっているように見えたんだ。僕の気のせいかもしれないけど。

Baiyon:
それは僕もずっと感じてきていたことですよ。僕は音楽とゲームと、他のメディアもいろいろ仕事しているけど、他の人々にも、「いろんなメディアで表現した方がいい」と伝えようとしている。たとえば日本では、僕らが好きになるような、実験的だったり技術的な意味じゃない最先端の音楽表現は、ゲームに少ないと思うんですよ。文化同士の壁が厚いように思うんです。だから、お互いに影響を与え合えられないのかも。

他の例を上げると、僕にはアーティストの友達がいるんですが、サブカルチャーとか映画とかにもとても詳しかったり、色々なことに関わったりもしている業界のベテランなんです。いろんなことを知ってる。なのに、ゲームの話になると急に知ってるのはファミコンの『スーパーマリオ』か、もしくは突然時間が飛んで最近テレビで宣伝しているモバイルゲームみたいな感じで。

あれ、自分が好きなインディーゲームの流れとか全然アートとかの世界に響いてないんだなと思う。だから、やっぱり壁はあるんですよ。古いファミコンのゲームと最近のモバイルゲームだけでゲームを判断されたらちょっと……ってなるよね。

David:
まあねぇ。そういうのも、もう少し時間が経てば変わる気もするけど。

Baiyon:
僕もそうなるようがんばってる。だからこそ僕は『Everything』というゲームが好きなんです。



『Everything』日本語版は、PS4/Nintendo Switch向けにPLAYISMより販売中。PC版も(Steam/Epic Gamesストア)で配信されている。